01. 蒼の都
◆第1章◆ 花とヨルの箱庭
大切な花があった。
愛して、大事に大事に育てた花があった。
大切に想っていたのに。愛していたのに。
その花を、摘み取ってしまった。
あの子は。
□ ■ □ ■ □
―――誤った。
まさか、こんなことになるとは。
ただ、あいつらの手から逃れるには、こうするしかない、と。
(……誤算だ!)
心臓が早鐘を打つ。
走り、逃げ惑うせいで、喉が焼け付くように痛い。
どれくらいの間、こうしているだろう。逃げても逃げても、あれは背中を追ってくる。冷たい腕を自分に巻きつけようと。
(くすくす)
耳朶をかすめた女の笑い声。汗が噴いているにもかかわらず、全身が凍えた。
そんな彼をからかうように、女の凍った細い指先が、スッと首筋に走る。足が絡まり、男は激しく地面へ倒れこんだ。
頭上から降りかかる、女の嘲笑。
「――ッ」
恐怖に声を上げることも出来ない男の首に、女は、死の指先をそっと絡めた。
□ ■ □ ■ □
一人の娘があった。
澄んだ流れの如き、蒼の髪。春の日差しにとける真珠の肌。
この麗しくも清らかな乙女の至福は、日々女神に祈りを捧げしこと。
絶えず捧げられる、穢れなき娘の祈り。女神はこれを愛で、やがて娘は、光の神子を授かった。
神子に与えられしは、癒しの御手。
世に安らぎをもたらせし神子と、その母たる娘の下には多くの民が集い、いつしか彼女らのために都が築かれた。
―――蒼の聖女、エルヴェイダ。
彼の娘の名を冠した地を、人々は今日まで崇拝し続け、一度は巡礼の足跡を刻まんと焦がれる。
重厚かつ荘厳でいて、涼やかな余韻を残す鐘の音が、石造りの古い都に響き渡った。
朝靄が晴れ、柔らかな光が清冽な空気と共に青い屋根の町並みを照らし、大気を暖かく満たしていく。
柔らかな緑の森に抱かれた都に、朝が訪れる。
「やー、さすが! 聖人エルヴェイダ生誕の地、蒼の聖都エルヴェルク。聞きしに勝る壮麗さだねぇ」
世界随一の繁栄を誇る宗教、聖セルゼニザス神教―――ここは、その聖地。
一緒にいる人間を思わず赤面させてしまいそうな調子で、青年は美しい早朝をそう賛美した。
この街の朝は早いが、今の時間だと、さすがに行き交う人は少ない。それが救いだ。
「さてっと、どこから探しますかねぇ」
中央通りの長い石段に足を掛け、少し癖のある髪を掻き上げながら、青年は周りを見回した。この辺りでは珍しい金髪が、指の間を滑る。
布地を多く取った型が特徴であるこの地方で、彼が今身に着けているのは、濃紺の生地に白い糸で独特の文様を描いた外套と、黒を基調とした細身の装束。それだけを取ってみても、彼がこの土地の人間ではないことは知れた。
巡礼の地として知られるエルヴェルクでは、異国の衣装を纏った旅人も少なくない。彼の場合、身に付けた装束は少々薄汚れているものの、質は上等な品物だ。だが―――、
「ウィード=セル。彼女からの報告では、やっぱり、あれから彼がこの街から出た形跡は無いって」
少し下の段から無表情に青年を見上げ、名を呼んできたのは、まだ幼さの抜けきらない年頃の少年。
ウィード=セルと呼ばれた青年は、少年に視線を落としながら、丸縁眼鏡のブリッジを押し上げる。
―――そう、彼は赤い硝子を嵌め込んだ丸縁の眼鏡を掛けていた。
明らかに視力矯正用ではない。本人は洒落たつもりかもしれないが、わずかなズレもなくビシッと掛けられたこの眼鏡のせいで、ひどく怪しく見える。
それに対し、連れの少年の出で立ちは、良家の子息そのものだ。抜けるような白肌に、滑らかな銀髪。同色の睫毛に飾られた氷碧の瞳。幼いながらに整ったその容姿に、上品な灰色の旅装束がしっくりと似合っている。
「ってことは、もう七日か。そんなに長く、アイツが身を寄せられそうな所が、ここにあるのかい?」
「無いと思うのだけど。……何しろ、ここは場所が場所だから。無暗やたらに嗅ぎ回るには危険。情報が皆無だし」
「えー、マジで?」
「マジ。今回は、果てしなく面倒な仕事になるよ。覚悟して」
「またまたー。始めからわざわざ、未来に暗い影を塗りたくらなくても」
「……安楽な誤魔化しで、塗り固めてあげた方が良かった?」
「うっ――いいえ。わかったから、ヒース=クラウン。そう睨まないでくれよ」
はははと笑いながら、ヒース=クラウンの冷たい視線をかわし、ウィード=セルは肩を竦める。
そこでふと、ウィード=セルは、背中に注がれる視線を感じた。
「――ん?」
見上げるように向かい合っているヒース=クラウンも、自分の背後に視線を向けたのを見とめ、何だろうと振り返る。
少し上の段を仰いだ瞬間、それと目が合った。
朝っぱらから、道の真ん中で騒ぐ連中が物珍しくて眺めていたのだろうか。気が付かれたことに驚いたらしく、彼女は大きな目を見開き、白い頬を紅潮させた。
黒い外套の下から覗く白いスカートが、主の戸惑いにつられたように揺れる。
「ご、ごめんなさい!」
小柄な少女だった。頭を下げて謝る彼女の細い肩から、長く真っ直ぐな栗色の髪が、さらりと零れ落ちる。
「いやあ、気にしないでください」
妙に愛想のいい笑顔を浮かべたウィード=セルの背に、いつもより低温気味なヒース=クラウンの視線が刺さった。
自分の不作法を咎められなかったことにほっとした様子の少女が、はにかむように微笑んだ。細められた瞳は、光を含んだ深い蒼。その愛らしい顔立ちに、柔らかい優しげな空気を加えている。
少女は、ウィード=セルたちの装束に目を止め、わずかに首を傾げた。
彼女の動きに合わせ、独特の意匠で編まれた黒い房飾りが、外套の胸元で揺れる。
「もしかして、巡礼の方ですか? 明後日の祭典にいらっしゃったとか」
「ええ、そんなところです」
少女の問いに、ウィード=セルはニコニコと頷いた。心なしか、背に刺さる氷碧の視線の温度が更に低下したように感じられたが、気付かなかったことにしておく。
少女は、ウィード=セルを見下ろしながら溜息をついた。彼の身なりをもう一度眺め回すと、立て続けに吐息を洩らす。
「巡礼の旅って、大変なんですね……」
その口調が、何処か同情めいているように感じられたのは、気のせいだろうか?
「あ、そうだ! これ、つまらない物ですけど、お詫びに……って、お詫びにならないかもしれないけど」
少女は、腕に下げている籐の編籠に手を入れた。わたしが作ったんです、と言いつつ、中から茶色い紙包みを二つ取り出し、ウィード=セルに手渡す。
朝食なのだろうか。作りたてらしく、紙越しにまだ中身が暖かい。
丁寧に礼を言うウィード=セルの手に、少女は白い両手をそっと添えた。
「すごく苦労して、ここまでいらっしゃったんでしょう? 辛い事もあるでしょうけど、頑張ってくださいね」
「え、あ、まあ……ありがとう」
「祭典、ゆっくり楽しんで行ってください」
励ますように告げながら、少女は花の笑顔を咲かせた。そのまま流れるような仕草で、ふわりと白いスカートを広げ、場違いなほどに優雅な別れの礼を送る。
何も言えず、ただ軽く手を挙げて応えることしか出来なかった旅人たちに、もう一つ笑みを残すと、少女は軽やかに階段を駆け下り始めた。
ウィード=セルは、朝の街へ去って行く彼女の背中を、大人しく見送る。自分のくたびれた装束を見下ろし、視線を手元の包みに向けた後、彼は隣に並んだ銀髪の少年に尋ねた。
「なあ。これってもしかして、お詫びってゆーか、施し?」
「慈悲深いお嬢さんだね」
氷碧の瞳の少年は、容赦なく言った。