04. 渡らずの魂
あれは、ルカがやって来て、一年くらい経った頃のことだったろうか。
絶対に入ってはいけない、と云い付けられていた屋敷の地下にある書庫。どうしても、中を覗いてみたい気持ちを抑えられなかったマーセルは、夜中にこっそりランプを持ち出し、止めるルカイスを無理やり引き連れて忍び込んだ。
『―――空をゆく少年の魂は、野を越え、山を越え、広い海をも駆け抜けて、遠く離れた愛する家族の元へと……』
「こんなの変だよね?」
問いながら、マーセルはルカイスの夜着を引いた。
その本を押し付けるように差し出すと、隣に腰掛けて別の本を読んでいたルカイスが迷惑そうに顔をこちらに向けた。本を覗き込み、指差した文面をスラスラと読み下した少年は、夜色の眼でマーセルを見上げてくる。
「……何が?」
「何がって、ここだよ!」
マーセルは、『空をゆく少年の魂は、』の部分を、グリグリと指先でなぞった。
「〈魂〉は、〈世界〉の中に残らないはずだもん。神学の先生がおっしゃってたの。魂は、その人が〈生〉を終えたら、女神様のもとへめされて、永遠の園でコウフクをむかえるんだって」
やがて、永遠の園で清められた魂は、再び世界に送り出され、新たな誕生を迎える。それが、聖母神リタ=ミリア=リアを崇める、聖セルゼニザス神教の教え。
「だから、このお話はとっても変。男の子は、どうしてまだ〈世界〉に残ってるのかな?」
見たことのない異国の服を纏い、背の翼を広げて飛びゆく少年の挿絵をなぞりながら首を傾げるマーセルの隣で、暗く翳った瞳を自分の本に戻しながら、ルカイスは呟いた。
「―――強くねがえば、世界に残ることもできるんだよ」
「ねがいって?」
「……きっと、どうしても会いたかったんだよ。お父さんとお母さんに」
「お父さんと……お母さん?」
少年はそれ以上何も言わず、再び本を読み始めてしまったので、マーセルは古く擦れた挿絵に視線を戻した。
広い海の上、空を翔る少年。
その海の先にある小さな島に、少年の両親が描かれていた。ページの隅で空を見上げる少年の両親は、我が子を導き招くように両の腕を高く差し伸べている。
誰よりも心優しいという女神様。苦しみも悲しみもない、幸せで満ちた美しい永遠の園。それらを捨てても、少年はこの二人に会いたかったのだろうか。
(母さま……)
マーセルはその言葉を音にはせず、そっと舌に乗せてみる。
会ったことのない母。マーセルを産んですぐに亡くなってしまったという母を呼ぶのは、いつも冷たい墓石の前だ。
褐色の肌に長い黒髪を垂らした挿絵の母親の姿に、目にしたことの無い母の姿を描き重ねてみようとした。だが、いくら頑張っても出来ない。
屋敷には一枚も肖像が残されていないため、自分の母の瞳が何色だったのかさえ、マーセルは知らない。母がどんな人だったのかを教えてくれる人もいない。
「……どうして、わたしの母さまはあいにきてくださらないのかな?」
無意識に洩らされた呟きに、ルカイスが顔を上げた。
「母さまは、わたしに会うより、女神様のところへ行ったほうが良かったのかな」
その言葉に、いつもは大人しいルカイスが、珍しくはっきりと否定の言葉を口にした。
「違うよ」
「え?」
「君のお母さんが、君より女神を選ぶはずないよ」
「なんで、ルカにそんなことがわかるの?」
「……君のお母さんは、特別だから」
「とく、べつ?」
何が特別なのか、ルカイスは教えてくれなかった。意味が分からず戸惑いながらも、マーセルは安堵したように息を吐く。
「じゃあ、一度はわたしにあいにきてくれたかな? わたし、小さかったから覚えてないだけなのかも。いまは、きっと永遠の園でしあわせに暮らしていらっしゃるんだね」
そう無邪気に笑うマーセルに、ルカイスは幼さに見合わない静かな表情で応えた。
「……世界は、そんなに優しく出来てないよ、マーセル」
意味不明な言葉に、再び首を傾げる。そんな彼女に背を向け、本を開き直したルカイスは、最後にぽつりと零した。
「―――いいじゃない。君にはまだ、お父さんがいるんだから」
■ □ ■ □ ■
―――初め、それが誰だかわからなかった。
いつものように、正門から大神殿の庭園へ出たマーセルは、朝靄の中、門の前に立っていた人影に気付き、立ち止まった。
「お父様……」
衣は、公師にのみ許された真紅。痩身で背が高く、近寄り難いほどの威厳を持つ男。しばらく顔を見ていなかった父・アルザスの姿に驚きながらも、マーセルはなんとか口を開いた。
「いつ、お戻りに?」
確か、遠方の街の視察に出かけていて、祭典の前夜―――今日の夜までお帰りにならないと、ルシアが言っていたはず。だが、アルザスはそれに答えず、逆に娘に問いかけた。
「……今日も、行くのか」
「え?」
「ルカイスのところだ」
消え入りそうな声でマーセルは、はい、と頷いた。
なんだか、そんな自分が嫌になる。父に声を掛けられたのは久しぶりなのに、嬉しいはずなのに、何故か恐ろしい。
叱られるのだろうか? 祭典の前に、ふらふら出かけるべきでないと。
そんな想像をしながら、マーセルは冷たくなった指を固く握った。―――しかし、
「……そうか」
返ってきたのは、明らかに快くは思っていない、それでも、行くことを禁じはしない言葉。実の娘に何の関心も示さない、いつもの父の声だった。
頭を下げ、マーセルはそのまま去ろうとした。いつもなら、アルザスはそのまま彼女を行かせてくれる。だが、今は何故か、呼び止めた。
「待ちなさい」
マーセルは全身を凍らせたように立ち止まった。驚きや恐ろしさ―――だがそれと共に、微かな喜びと期待が湧き上がる。
しかし、そんなマーセルの心中とは裏腹に、アルザスの言葉は他愛のないものだった。
「ルカイスに伝えなさい。今日、神殿に赴き、近況を報告するように、と」
「……はい……わかりました」
返事を返す声が震えないようにするため、外套の胸元をきつく握る。そのまま振り返りもせず、マーセルは石畳を蹴った。
ルカイスに会いに行く事を禁じられなかったことへの安堵。そして、結局、彼女自身には何の言葉もくれなかった父に、どこか失望のようなものを感じながら。
(わたし……ばかみたい)
いつものことなのに、何故期待してしまうのだろう。
ふと、レミナの頬の温かさを思い出す。
父に、あんなキスを贈ったことは一度も無い。こんなにも愛しているのに、愛することを許してくれない。
父の側から一刻も早く離れたくて、マーセルは力一杯走った。
そして、走りながら気が付いた。
さっき、父が一度も、自分の名を呼んでもくれなかったことに。
風邪引いてお休みしてるので、明日にはもう一話くらい更新出来るかもです。(←寝てろ)




