02. 霧の回廊
冷たい指が、喉をわし摑んだ。
もはや、悲鳴を上げることも出来ない。
身体中を切り刻まれ、血に濡れて泣き叫びながら逃げ惑う。この恐怖の中、どれくらいの時が経ったのかさえ分からない。
自慢だったはずの、長く豊かな髪。血を吸ったせいで重く揺れて、今はひどく邪魔だった。
べったりと黒い絵の具を塗りつけたような夜空に、十八個の月が莫迦みたいに大きく見える。
―――いたい? いたいでしょう?
頭に響くように届いたそれが女の声だということに、少し間を置いて気付いた。しかし、その声に言葉を返すだけの余裕が、今の彼女にあろう筈もない。
―――いたい? いたいわよね?
長く尖った爪が、滑らかな首の皮膚に食い込む。
嫌だ、と悲鳴を上げたつもりが、喉や口に溢れた血で潰れた音になる。激痛に目を見開く娘の耳元に、女は凍った唇を寄せた。
嗤いを含んだ、少し拗ねたような声。まるで、無邪気な子供のような。
―――でもね、あなたがわるいの。あなたがいたいと、わたしはうれしくてたまらないわ。
真っ赤な血がだくだくと胸元へ流れ始めるが、娘がその温かさを感じることはなかった。
「……んで……」
(……なんで、わたしがこんな目に)
その問いに、答えを返してくれる者はない。
濁っていく視界の中、娘が最後に目にしたのは、花のような微笑み。
恍惚とした表情で己の喉笛を切り裂く、美しい女の姿だった。
■ □ ■ □
「何を考えているのだね」
早朝の回廊。神殿特有の清冽な空気に朝の冷気と静けさが入り混じり、神がかった厳かな雰囲気と、得体の知れないモノに覗き見られているような、そんな気分にさせる。
遠方の街より帰還して直に、神殿での執務をこなしにやって来たアルザス・ゴートガードは、その声に足を止めた。
外部に面したこの通路からは、春に色付いた庭園の一角が望める。声の主は、小さく設けられた噴水に手をかけ、こちらに視線を投げかけていた。
どこか軽薄そうな、初老の男。
「ジオラルム」
ゴートガード家と同じく、四聖家に名を連ねるフォンダム家の元当主であり、公師の一翼を担う男。
「こんな時間に、どうされた」
「いや、なに。熱心な貴公に習ってみようと思うてな。どうせ、まだ屋敷に戻ってもおらぬのだろう?」
「〈華鏡の祭典〉は明日。視察が長引いたせいで滞っていた執務が山とある。公師たる私が、休むわけにもいくまい」
「ふん―――余裕だな。その祭典の主役を務める華鏡姫は、貴公のご令嬢だろう? 祭典の前ともなると、どの聖家でも神子姫の家族や親族は、あれやこれやと付き添い構ってやるものではないか」
「……娘のことは、ルブルスの姪に任せている。貴殿に心配されるいわれはない」
面に何の感情も浮かべることなくそう言い切ると、もう話すことはないと言うように、アルザスは歩みを進めようとした。――――だが、
「待て、アルザス。まだ答えを貰っておらぬ」
苛立ちを滲ませた声が、それを阻む。
「先ほど問うたろう。何を考えておるのだ、と」
「……何を尋ねたいのか、私にはわからぬ」
「貴公の姫のことだ」
「だから、そのことは―――」
「そうではない。その姫と、〈柱〉のことだ」
小さく息を呑んだ。アルザスのその様子に、ジオラルムが嫌味な笑みを浮かべる。彼は公師の証である、白銀の首飾りを指で弾き、続けた。
「つい先日、噂を小耳にはさんだのでね。貴公は未だに、ご令嬢と何の確約もさせていないそうではないか」
「―――他家の者が、わが家の内情に立ち入る権利はない」
「権利がない、だと? よくそのようなことが言えたものだ!」
あくまで静かに返ってきたアルザスの答えに、ジオラルムは気色ばんだ。
「本来なら、我がフォンダムのために、あれを使うべきだったのだ。〈春〉の称号を持つ神子姫を輩出したゴートガードに、何故いま必要だというのだ!」
フォンダム一族の神子姫は、現在〈紅爛の神子姫〉、すなわち、秋の座にある。
神子姫の座は、生まれ持った錬祈力の強さで、四季の順に授けられるもの。勢力争いの絶えない聖家間で、一族の神子姫に与えられた地位とは、お互いの力の象徴でもある。
「ゴートガードが、二代も縦続けに〈柱〉を得ることが出来たのは、託宣がそう導いたからこそ。我等が先祖、エルヴェイダの時代から脈々と伝えられてきた、尊いしきたりに従ってのことだ。なのに貴公は、未だその意向に沿っていないという。これはどうしたことか!」
(しきたり……か)
この聖地の全てを縛り、この身を束縛し続ける歪んだ、くだらないもの。
それが何より尊いと人一倍吼えるこの男に、そんな風にしか思えないと告げたならば、一体どんな顔をするだろう?
だが、ジオラルムは正しい。少なくとも、アルザスが属するこの世界では、それが何よりも尊ばれる。人、一人の生などよりも。
長い長い吐息の後、アルザスは静かに告げた。
「しきたりに背く気は毛頭ない。まだ将来を交わさせておらぬのは、彼らが年若過ぎるという理由から。そう急くこともあるまい」
神子姫は、清乙女でなければならない。どのみち、娘が神子姫である以上、今はどうしようもないのだから。
ジオラルムは、それでも気に入らないように鼻であしらったが、横柄な足取りでアルザスに近付き、それまで手にしていた、一巻きの羊皮紙を彼に渡した。
「これを見ても、そうゆったりしたことが言えますかな」
「―――これは?」
蝋の刻印を破いて紐を解き、羊皮紙の文面に視線を走らせる。文字の羅列を追うに従い、さすがのアルザスも顔色を変えた。
「昨日、街の一角で〈陣〉の発動が確認された。神殿の者が駆けつけたときには、もはやその痕跡は無かったというが」
その発動が確認出来たことだけでも、幸運だった。〈陣〉の発動を感じとるには、よほど知覚に優れた錬祈術士が近くにいなければならない。
「……異端審問め。街への侵入を許したのか。今月だけで、もう二度目だぞ」
「一度目は、その侵入を確認したのみで、以降の消息が分からん。案外、もう街の外へ逃れたのやもしれん。念の為、そちらの方の捜索は街の外部にもかけてある」
「では、今回の者たちは」
「偶然か、一度目に関係する者か―――あるいは、何かここへ目的があってやって来た者か」
「目的……」
「そう、目的だ。何にせよ、一匹たりとも、この街から逃れることは許されない」
その言葉にアルザスは固く目を閉じ、苦い思いを噛み締めた。
この地から逃れることは許されない。
今、その言葉を突き付けられたのは別の存在。
だがそれは、かつて自分たちに向けられたものと、全く同じ。
なあ? ……リティシア。
第1章は毎日(では無い時もありましたが?)更新してまいりましたが、この先の更新は、少々不定期になりますので、ご了承くださいませ☆ 1週間に1、2度は更新したいと考えておりますので、どうか見捨てず(!)、気長にお付き合いくださいませッ。
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嬉しさのあまり、いつもより多くアップしてみました。調子に乗りやすい奴です、全く。
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