この気持ちは
夜番との交代を終えたギルティンは、扉を離れ、今夜割り当てられた部屋へ向かって、きらびやかなランプが並ぶ廊下を歩く。
玄関ホール近くまで来た時、不意に呼び止められた。
呼び止めたのは、正装の襟元を着崩しながら帰ってきたディードだった。
堅苦しい衣装をすぐにでも脱ぎたそうな様子を見て、ギルティンは小さく吹き出す。
「ようやく開放されましたか」
「ああ、久しぶりの社交界とやらは疲れる」
ディードは辟易とした様子で零す。
久しぶりに社交界に姿を見せたディードを、縁のある貴族達は、日が暮れても離さなかったらしい。
「ギルティン、一杯付き合わないか」
ディードが通り過ぎるのを端に寄って待っていると、そんな言葉が掛けられたので、ギルティンはニヤリと口端を上げる。
「一護衛兵が、領主様と飲んだりしていいものですかね?」
「それこそ、私は領主権限で誰でも誘えるのではないか?」
二人は軽く笑い合って、共に奥の部屋へ入った。
「『フラウレティアを守る者が必要になると』そう感じたから、護衛に名乗りを上げたんだって?」
普段なら口にできないような、高級な果実酒で喉を潤していたギルティンに、唐突にディードが尋ねた。
「レンベーレ様から聞いたんですか?」
「ああ。……フラウレティアと“共鳴”したことに関係があるのか?」
「……それも聞いていましたか」
ギルティンは苦笑いする。
ギルティンがアッシュとフラウレティアの正体を知ったことは説明してあるが、共鳴を経験したことは、ディードにも詳しく話していない。
おそらく、フラウレティア自身が、ディードには話したのだろう。
本物の親子ではないとはいえ、その関係は、形だけの完全な偽物というわけでもないようだ。
「“共鳴”とは、どういうものなんだ? 一体何を感じた?」
ディードが酒の入ったグラスを下ろして尋ねるが、ギルティンは首を振った。
「どういうものかと聞かれれば、文字通り共鳴したとしか言えません。俺にも、あれはもしかしたら夢だったのではないかと思うことがあります」
ここではないどこかへ、精神だけを飛ばされたように感じた。
そこで、ナリスの残された心を受け取った。
まるで現実的ではない。
だが、あれは確かに真実だったと信じている。
だからこそ、そこで図らずも見えてしまったことも、本当のことだと信じている。
ドルゴールの風景、竜人族。
フラウレティアの心を占めた、強い想い。
―――そして、共鳴の場に存在した、“精霊”という世界を支えるものが示した、ある懸念だ。
「ただ、いつか嬢ちゃんを、誰かが守らなければならない時が来ると、そんな予感がするんです。……だから俺が守ります」
ディードはグラスを下にしたまま、ギルティンの表情を窺う。
「その役を担うのは、アッシュでは駄目なのか?」
フラウレティアを守るのは自分だと、アッシュは主張して憚からない。
これからも、何かあればフラウレティアを守ろうとするだろう。
ギルティンは、手元のグラスを見詰める。
共鳴の時に示された懸念。
フラウレティアを害する者から、守らなければならないという、精霊達の意思だ。
ギルティンがグラスを揺らすと、底に残った深紅の液体が揺れる。
「……おそらく、アッシュでは駄目です」
あの時見えたのは、確かにアッシュに害されるフラウレティアだったのだから。
窓からこっそりと外へ出たアッシュとフラウレティアは、夜を照らす明るい魔術ランプの光を避けるように、出来る限り暗がりを駆け抜ける。
夜と言っても、走ればすぐに汗ばむ暑さだったが、湖の上から吹いて来る風は、涼し気な水気を含んでいて、想像していたよりも気分が良い。
思えば、アンバーク砦で、魔獣に近付く為に草原を駆けてから、フラウレティアは思い切り足を動かしたことはない。
久しぶりに制限なく、身体を自由に動かして駆けるのは、とても気分が良かった。
……いや、気分が良いのは、二人で駆けているからかもしれない。
フラウレティアは、隣を走るアッシュを見上げた。
暗闇の中だというのに、フラウレティアの視線に気付き、アッシュは目元を緩める。
その僅かな変化で、アッシュもまた、この瞬間が楽しくて仕方がないのだと分かり、フラウレティアの胸は弾んだ。
アズワン湖の中央付近には、細い水中木が優美に連なり、湖を東西に分けたように見える。
水深は西側の方がやや深く、景観もそちらの方が良しとされる為、別荘が多く連なるのは南西側だ。
今湖面に浮いている数隻の大型遊覧船は、どれも湖の西側にあった。
風に乗って、船から緩やかな音楽が聴こえる。
フラウレティアとアッシュは、その美しい調べを聴きながら、水中木で遮られた東側を目指した。
距離的には長かったが、本気で駆ける爽快感に、その距離は全く苦にならなかった。
水中木の境界線を超え、二人はゆっくりと足を止めた。
呼吸を整えながら湖を見れば、連なる細い木々の間に、遊覧船の灯りが滲む。
ここまで来れば音楽は聴こえず、とても静かだった。
自然と隣り合って立った二人は、黙って湖の光景を眺めていた。
「今日ね、可愛いって言ってくれて、嬉しかった。ありがとう、アッシュ」
不意にそう言われて、アッシュは隣のフラウレティアを見下ろした。
頭二つ分アッシュより背の低いフラウレティアは、真っ直ぐ前を向いている。
「フラウ?」
呼ばれて、フラウレティアはアッシュに顔を向ける。
「大丈夫。……ちゃんと、ずっとアッシュの娘でいるからね」
アッシュは“家族”だ。
でも、特別な家族。
なくてはならない、側にいなければ胸が張り裂けてしまいそうな、離れていられない存在。
それを何て言えば良いか、フラウレティアには分からない。
この“好き”を、何と表現すれば良いのだろう。
―――分からないけれど、きっと、娘が父親に向けるものじゃない。
でも、きっと、私を娘だと思っているアッシュには、こんな気持を向けられても困るだろう。
だから今まで通り、私は娘でいなくちゃならないんだ……。
フラウレティアは、そっと微笑んだ。
ガバと、アッシュがフラウレティアを抱きしめた。
「え?……アッシュ?」
驚いて目を見開くフラウレティアを、アッシュは二人の間の隙間を埋めるように、ギュウと力を込めて抱く。
「アッシュ、く、苦しい……」
ハッとして、アッシュはフラウレティアを離した。
―――しかし、本当は、離したくない。
「俺は……」
アッシュが僅かに顔を歪めた時、薄闇の中から、少女の細い悲鳴が聞こえた。