心の内
そこは、白い世界だった。
いや、正確に言えば、ただ白いだけではない。
薄灰のような掠れた色が、濃淡をつけてはいる。
しかし、どこもかしこも温かみが薄く、寂しさが滲む。
これがフラウレティアの世界だ、とアッシュが直感的に感じたのは、色味の薄い世界の中に映っては消える様々な物が、最近共に見ているものばかりであったから。
そして、その中に混ざる人々の影が、こちらを見て『フラウレティア』や『お嬢様』と呼ぶからだ。
『フラウ』
不意に、自分の声が聞こえた。
いや、自分の声だと分かるが、驚く程に穏やかに優しく聞こえて、自分の声なのかと疑いたくなる。
しかし、そんな疑問を浮かべた瞬間、世界は一変した。
まるで気温が上昇するかのごとく、白い世界に温かな色が浮かび上がる。
足元から、目線の先から、頭上から。
多くの色が塗り拡げられ、降り注ぎ、全てを染め上げると、まるで花が開き切るように、フワと甘やかな香りがした。
瞬間、視界が左に半回転する。
視界の主、フラウレティアが振り向いたのだと分った。
その視界に、アッシュが映ると、アッシュは狼狽えた。
そこに立つのは確かに自分だ。
自分の容姿はよく分かっている。
父親のハドシュによく似た、硬質な身体と、のっぺりとした無表情な顔。
無機質な髪と刺々しい大爪。
アンバーク砦に身を寄せてから、季節一つ分経った。
その間、容姿も雰囲気も様々なら、表情豊かで常に感情を溢れさせる人間の中に入り、自分達竜人族が、いかにこの世界において異質な者なのか痛感した。
それなのに―――。
『アッシュ』
名を呼ばれた目の前の自分が、信じられない程に柔らかい。
見た目が変わったわけではない。
それなのに、纏う雰囲気、向ける深紅の眼差しが、明らかに柔らかいのだ。
周りにいる人間とは違う。
側に寄ると、温かみすら感じる。
『アッシュ、大好き』
その一言を耳にして、アッシュは唐突に理解した。
自分だけが、フラウレティアの特別なのだ。
アッシュだけが、彼女にとっての色で、香りで、温度で―――。
「何かあったのか」
廊下を歩いて来たディードの声掛けで、アッシュは我に返った。
急いで何度か瞬きして、フラウレティアの手首を取ってから、僅かな時間しか経っていないことに気付く。
目の前には、泣きそうに顔を歪めたフラウレティアがいて、その周りにいる人々の位置や様子は変わりない。
今のアレは一瞬のことだったのだ。
「フラウレティア、アッシュ、どうした。何かあったのか?」
再び同じように尋ねながら、ディードが近付いた。
彼もまた、園遊会に向かうための正装だ。
髪を整え、紺の礼服の上に左肩にペリースを掛けている。
フラウレティアは、ディードのその姿を見て、自分も園遊会に参加するためにここにいるのだと思い出した。
我が儘で出席をやめると言えば、きっとディードは困るだろう。
だけど……。
揺れる瞳でアッシュを見上げれば、彼はフラウレティアの手首をパッと離した。
そしてその手の甲で、控えめに彼女の頬を擦る。
頬に付いていた淡い桃色の口紅が、アッシュの手の甲にも移った。
「違う。……フラウ、違うんだ」
アッシュがどこか狼狽えたように言うので、フラウレティアは不安気に次の言葉を待った。
「さっきは、嫌だったんじゃない。……その、フラウが……可愛くて戸惑った……」
放たれた言葉に、フラウレティアは僅かの間ポカンとした。
そして、次の瞬間大きく目を見開き、続いて瞬きすると、パッと両手で口元を隠した。
「お……お化粧、直さなきゃ。ディード様、少し待って下さいっ」
「え、ああ、もちろん」
ディードの返事と同時に、フラウレティアはドレスを翻して踵を返し、侍女達が見守っていた扉から部屋へ駆け込んだのだった。
「……何がどうなっている?」
扉が閉まるのを待って、ディードが振り返れば、アッシュが呆然と壁に凭れ掛かった。
訳が分からないという風のディードの側に来て、ギルティンが軽く溜め息をついた。
「……今、嬢ちゃんと“共鳴”したのか?」
「共鳴……」
アッシュは頭を抱えた。
レンベーレの言った通り、感情の揺れに、魔力の制御は影響を受ける。
フラウレティアはさっき、アッシュの苛立ちを感じて不安になり、制御が緩んだ。
そして、アッシュの魔力と繋がった。
確かに、瞬間的に共鳴したのだ。
「共鳴……。じゃあ、今のは……」
それならば、あれはフラウレティアの紛れもない心の内で。
勢いよく血が巡り、アッシュの身体中にカッカと熱を散らす。
アッシュにも分かる。
あの光景が、どんな気持ちを表すのか……。
『アッシュ、大好き』
家族なんかじゃない。
フラウは、彼女は、俺のことを――――。
明らかに狼狽えたアッシュが、頭を掻きむしった。
「……よーやく気付いたみたいですよ」
ギルティンが呆れたように呟いて、ディードに肩を竦めて見せる。
説明されたディードは、どこか安心したように深く息を吐いたのだった。
再び身なりを整えたフラウレティアは、ディードと共にアズワン湖の畔に出た。
二人は、アンバーク領やディードと縁のある貴族達と顔を合わせ、挨拶を交わす。
殆どの相手は、最近アンバーク砦で起こった事件と、今になって見つかったディードの娘について話を聞きたがったが、受け答えするのはディードであって、フラウレティアではない。
フラウレティアはただ付いて周り、微笑んで教えられた挨拶をするだけだ。
だから、ずっとどこかフワフワしていた。
『可愛くて戸惑った』
そんな言葉を、アッシュから言われたのは初めてだった。
特に意味はないのかもしれない。
いや、意味なんてなくても良い―――。
フラウレティアは、距離を置いて立っているディードの護衛騎士とフラウレティアの護衛の更に後ろに視線を向ける。
隠匿の魔法の効果で、誰にも気にされずに立っているアッシュと目が合うと、喜びを滲ませて微笑んだ。




