溢れそうな気持ち
「わぁ……」
目的地に到着間際、馬車の窓から外を見たフラウレティアは、喜色に顔を輝かせて声を漏らした。
隣に座るアッシュの袖をグイと引き、外を指差す。
「アッシュ、見て! きれいね!」
指差す先は、木々の間から見えるアズワン湖だ。
その湖面は巨大な一枚の鏡面のようで、澄み切った青空を写し、遥か遠くまで続く。
湖の中央付近には、水中から白灰色の細い幹を突き出す水中木が連なる。
その優美な連なりは、長い楕円形の湖を、まるで東西二つに分ける境界線のようにも見えた。
フラウレティアもアッシュも、湖は見たことがある。
魔の森には、湖が少なくない数存在するからだ。
しかし、その大きさは小さいものがほとんどで、対岸から大声を出せば十分聞き取れる程度だ。
二人が知っている内で一番大きな湖でも、一周歩いて回るのに四半刻かからない。
そして、そのどれもが、景観を気にして手入れされているものではないので、水は澄んでいて美しくとも、底の水草然り、周辺の雑木や雑草然り、自然のままで鬱蒼とした印象が強い。
アズワン湖の風景画のような美しさとは、全くの別物だった。
「きれいね」
もう一度繰り返して、フラウレティアがアッシュを振り返った。
「ああ、きれいだな」
アッシュもまた、アズワン湖の景観に感動して、素直に応じる。
「一緒に見られて、嬉しいね」
同乗者はディードだけで、“アッシュ”と堂々と呼べることも嬉しく、フラウレティアの声は自然と弾んだ。
続けられた言葉に、アッシュは言葉を詰めた。
一緒に見られて嬉しいと、アッシュも思っている。
そこも素直に返事をすれば良いだけだ。
しかし、不意にフラウレティアと魔の森で見ていた湖を思い出してしまった。
常に二人だけで歩いた魔の森。
二人だけしか知らない、小さな湖の畔での休憩。
あの場所を、また二人で見たい。
こんな風に、気取った馬車の中からでなく、下草の生い茂る青々とした香りの中で、動物たちが水場に寄るのを見て、声を潜めて笑い合いたい―――。
「アッシュ?」
「あ?……ああ……、そうだな。俺も、一緒に見られて嬉しい」
繕うように言ったアッシュの言葉を、フラウレティアは一抹の不安と共に受け取った。
湖の南側の畔には、王族の別荘として建てられた、巨大な館が立ち並ぶ。
アズワン湖の分けられた東西をも一望できる、最も眺めの良い立地だ。
美しい景観を崩さないよう、フルデルデ王国の建物にしては控えめな色合いの建物は、造りは優美でどこか女性的だった。
湖畔から少し離れた所には、高位貴族の別荘群もあるが、アンバーク領の貴族の物はない。
今回、王配の招待客として訪れたディード達には、王族の別荘群の中から、小振りな一棟を貸し与えられた。
園遊会自体は一週(五日)間続けられるが、ディードとフラウレティアが出席するのは、初日の今日と、明日の二日間だけだ。
王配は、明日から園遊会に参加する。
ディード達は、今日は軽く湖畔を散策しながら馴染の貴族に挨拶をし、一泊して、明日王配に拝謁する予定だった。
一泊の住まいとなった別荘に入った一行は、荷物を片し、園遊会に出向く主人の身支度を整えた。
「アッシュ」
フラウレティアが、彼女の部屋から出て来て声を掛け、扉の外で待っていたアッシュは声を失う。
余所行きのドレスと装飾、ほんのりと乗せられた化粧。
アッシュのまるで見たことのないフラウレティアが、そこにいた。
未成人のフラウレティアのドレスと装飾は、貴族の成人女性のそれと比べれば、とても大人しいものだったが、ドルゴールで生きてきたアッシュにはとても華やかなものに映る。
そして、その格好で微笑むフラウレティアは、まるで別人のようで……。
そんなドレスはいらない。
アッシュは衝動的に、そのドレスを引き裂いてやりたいと思った。
フラウが、どんどん知らない者になっていってしまう。
肩布を風で翻し、大股で駆け、力強く弓を引く。
それがフラウだ。
肩に乗った翼竜に、直ぐ側で日に焼けた笑顔を向けて欲しい。
人間の暮らしになんて、やっぱり混じらせるべきではなかった……。
フラウレティアの意思を尊重するつもりだった。
それなのに、アッシュの頭には、今のフラウレティアを否定したい気持ちばかりが浮かんでくるのだった。
バシッ、と大きな音をたてて、アッシュの頭が叩かれた。
「てっ! 何をする!?」
思わず勢いよく振り向けば、扉の側で並んで立っていたギルティンが、心底呆れたような顔で叩いた手を振る。
「うっせぇな、石頭。ガキか。……いや、本当にガキだな」
「何だと!?」
「あのなぁ、俺にも分かるほどヤキモチを駄々漏れさせんな」
「なっ……!」
アッシュは言葉を詰まらせる。
反論しようと口を開けかけたアッシュの袖を、フラウレティアが引いた。
見下ろせば、彼女はどこか心細そうな顔をして、アッシュを見上げている。
「……アッシュ、嫌だった?」
フラウレティアが尋ねた。
フラウレティアが“ヤキモチ”というものを知ったのは、アンバーク砦でレンベーレがアッシュを連れて行った時だ。
とても嫌だった。
そして、フラウレティアが従僕のエナと仲良くしているのを、アッシュがヤキモチを焼いたのでは、と教えられた。
アッシュもまた、フラウレティアが誰かといることが嫌だと感じたのだろうかと思った。
そんな風に、感じたくない。
そして、感じて欲しくない。
「アッシュが嫌ならやめる」
フラウレティアが、躊躇わずに手の甲でギュギュっと唇を擦ったので、開いた扉の内にいた侍女達が「ああっ!」と声を上げた。
完璧に可愛らしく整えた少女が、お披露目もしない内に化粧を乱す様に、誰もが声を抑えられない。
淡い色の口紅が頬に擦れる。
アッシュが焦るほどに強く擦るフラウレティアは、ひどく泣きそうな顔になっていた。
「フラウ!」
思わず掴んだ手首から、アッシュにフラウレティアの気持ちが流れ込んだ―――。




