出発前夜
火傷を負った数人は、食堂で手当をされた。
フラウレティアはエイムに付いて、手際よくその手伝いをした。
厨房から、肉を茹でた匂いが食堂まで漂っている。
煮込みの肉を下茹でしていた大鍋を、誤って倒して床にぶちまけてしまったらしい。
もうもうとした湯気は消えているが、換気をしている今も、厨房はその匂いが充満していた。
「本当に、ごめんよ……」
椅子に座っているマーサが言った。
大きな身体を小さくして、項垂れている。
その足首や手には、包帯が巻かれてある。
大鍋を倒してしまったのは、マーサだった。
「大火傷した人がいなかったのは、幸いでしたよ」
エイムが息を吐きながら言った。
すぐ側に人がいなかったので、まともに湯を被った者はいなかったのが幸いだった。
火傷はマーサが一番酷かったが、長い丈夫な前掛けと、ゴム長靴を履いていた事で、大火傷とはならなかった。
飛び散った湯や湯気で、軽い火傷を負った者と、湯気で一瞬にして視界が悪くなり、物や人同士でぶつかったり、肉を踏んで転んだ者が、軽い怪我をした程度だった。
背の高い料理人が、顔に流れる汗を拭きながら、厨房から出て来た。
「片付けは大体終わったよ」
申し訳なさそうに顔を上げたマーサの肩に、料理人は手を置く。
「ここはいいから、もう部屋に戻れよ。……火傷が良くなるまで、厨房のことは任せて休んだ方がいい。どうせ二、三日すれば領内に帰るんだし……」
マーサが顔を歪めたのを見て、料理人は続く言葉を飲み込んだ。
砦には、未だ回収された骸の半数近くが安置されたままだ。
神聖魔法で腐敗の進行は止められて、引き取りを待っている。
引き取りが既に完了しているのは、殆どが貴族出の騎士だ。
平民出のものは、出自が分かっても墓地の手配が終わるまでは、砦に安置して良いとディードが許可を出していた。
マーサの息子も又、数日後に共同墓地へと運ばれて行く事になっている。
マーサにとっては、毎日厨房で忙しく立ち働くことこそが、生活の中心だ。
家族を別にすれば、生き甲斐と言ってもいい。
特に今は、気を紛らわせるためにも立ち働いていたかった。
しかしマーサは、言葉を飲み込むようにして唇を引き絞った。
溜め息をついて立ち上がる。
「……とりあえず今夜は休ませてもらうよ。皆、迷惑かけてごめんよ」
頭を下げて、マーサは力なく歩き出す。
フラウレティアが支えようと近付くと、やんわりと断られた。
「大丈夫、一人で戻れるよ」
その笑顔は今まで見た中で一番痛々しくて、フラウレティアは、マーサの背中を見送りながら唇を噛んた。
エイムと共に、フラウレティアは医務室に戻る。
マーサのことを、ずっと気にかけている様子のフラウレティアに気付き、エイムは声を掛ける。
「……フラウレティアさんは、明日出発でしょう? もう準備は出来たんですか?」
「はい。私が特に準備するものはないし……」
言いかけて、フラウレティアは下を向く。
「エイムさん、あんなマーサさんは、辛すぎます。何か出来ることはないでしょうか……」
「……薬師に出来ることは限られています」
俯くフラウレティアの肩に、エイムはそっと手を置く。
「でも、人は気持ちに添うことが出来ます。フラウレティアさんが、師匠を思ってミルクジャムを作ってくれたように」
エイムを見上げたフラウレティアに、彼は笑って見せる。
「労る気持ちは、きっとマーサさんの救いになりますよ。さ、片付けは大丈夫ですから、行って下さい。ちゃんとお別れするのも、準備の内ですよ」
エイムにぽんと肩を叩かれて、フラウレティアは大きく頷いた。
素早く身を翻し、入り口の掛け布をはぐろうとして立ち止まる。
「エイムさん」
フラウレティアは振り返って姿勢を正す。
「ここでエイムさんとグレーン薬師に出会えて、本当に良かったです。ありがとうございました!」
頭を下げ、顔を上げる。
エイムはグレーンのように、フラウレティアを温かく見つめて頷いた。
マーサの部屋は、別館の隣の建物にあった。
砦で働く女達の部屋は、全てその建物に集まっているらしい。
いわば、女子寮のようなものだ。
「フラウレティア、どうしたんだい?」
扉が開いて覗かせたマーサの顔は、疲れと驚きが滲む。
「……明日ここを出るので、ちゃんとお礼を言っておきたくて」
心配で来たのだと、顔に書いてあったのだろう。
マーサはほんの僅かに苦笑いして、フラウレティアを室内に促した。
マーサの部屋は二人部屋だったが、もう一人は女兵士で、今夜は夜番で朝まで戻らないという。
二人は椅子に腰掛けて向き合った。
「出発前だっていうのに、心配かけて悪かったねぇ。こんなはずじゃなかったのにさ」
マーサは苦笑いのまま、一度溜め息をついた。
「分かってるんだ。亡くなったもんは、もう戻ってこないってね。ただねぇ、悲しいのだけは、どうしようもないよ……」
いつも、身体中から元気が滲み出しているようだったマーサが、今は目に涙を滲ませていた。
フラウレティアは堪らず立ち上がって、マーサに正面から抱きついた。
驚いたアッシュは右肩から飛び上がって、床に降りる。
「マーサさん、私……、私マーサさんが大好きです。いっぱい、いっぱい助けてもらったの……」
人間を抱きしめるなんて、初めてのことだった。
アッシュとミラニッサしか、人型の生き物を抱きしめたことなんてない。
初めて身体中で感じる体温は、驚くほど温かく、その感触は、不思議と離れがたい程に懐かしく感じた。
マーサは太い腕を回し、フラウレティアの小さな身体を抱き返す。
「アタシもアンタが大好きだよ。何だか娘が出来たみたいでさ。……ああ、アンタもいなくなるなんて寂しいねぇ……」
ギュウとしっかり抱えられたまま、フラウレティアは目を見開く。
母親とは、マーサのようなものだろうかと考えた時から、フラウレティアの母性を求める心は、彼女に惹かれ続けていた。
そのマーサにこうして抱きしめられ、娘のようだと言われて、胸が震える。
柔らかな腕に包まれて、染みるような温かさに、不意に何かが込み上げた。
フラウレティアの身体の奥から、ブワと魔力が沸き上がる。
「……っ」
押し上げられる感覚に、フラウレティアが思わず口を開きかけた時、背中から衣服を掴まれて、力任せに後ろに引かれた。
マーサから引き剥がされるようにして、床に尻から落ちる。
受け身も取れず、勢いのまま倒れそうになった上半身を、アッシュが支えた。
「……アッシュ?」
フラウレティアは驚いて、アッシュを見た。
今のはアッシュが服を咥えて、力一杯後ろに引いたのだ。
服を離したアッシュが鋭い視線で唸って、初めてフラウレティアは周りの異変に気付く。
周りには、光のような魔力が溢れている。
その出所は、自分自身だ。
無意識に共鳴に入ろうとしていたことに気付き、フラウレティアは呆然とした。




