届けたいもの
翌早朝、フラウレティアは数日ぶりにディードの私室を出た。
真っ先に向かったのは、厨房だ。
まだほとんど人のいない食堂を抜け、厨房を目指す。
途中ですれ違う人達が窺うような視線を向けて来たが、特に声を掛けられることはなかった。
「おはようございます」とこちらから声を掛ければ、驚いたように挨拶を返してくれるが、どこかよそよそしい。
ディードが娘だと宣言したからなのか、眠る前とはまた視線が違う気がした。
「マーサさん」
厨房に足を踏み入れたフラウレティアは、大鍋の前にマーサの姿を認めて声を掛けた。
「ああ、フラウレティアじゃないか」
マーサはフラウレティアを見て笑顔になったが、その顔は今までに比べてとても元気のないものだった。
「随分寝たきりだったそうだね。見舞いに行けたら良かったんだけどさ……、ごめんよ」
マーサの大きな手は、フラウレティアの右肩を軽く撫でるが、声は力なく落とされた。
フラウレティアは小さく頭を振る。
「私は平気です。それよりも、マーサさんの方が……」
「……聞いたのかい?」
フラウレティアはコクリと頷く。
マーサの息子が騎士達の骸に含まれていて、マーサが酷く打ちひしがれていたことは、既に聞いている。
いや、フラウレティアはその事実を聞く前に、あの骸の中にマーサの息子が含まれていることを知っていた。
マーサはやつれた顔で、力なく笑う。
「……仕方ないことだよねぇ。亡くなった者は、もう帰って来やしないんだからさ」
マーサのその様子は、フラウレティアの胸を詰まらせる。
この砦に来てから、一度としてこんなに元気のないマーサを見たことはなかった。
「それよりも、アンタだよ、フラウレティア。ディード様の娘だったって?」
マーサは再び肩を撫でる。
周囲にいる厨房の仲間達が、こちらを注意深く窺うのが分かった。
「あ、はい。色々と調査をしてもらった結果……そういう事だったって……」
ディードが調査の為にゴルタナ国へ人を送っていた事は事実だ。
その調査で、フラウレティアが魔穴で飛ばされて、奇跡的に生き残ったディードの娘だということが判明したと、そう説明されてある。
実際、歳のほどは変わらないし、髪や瞳の色も近い。
フラウレティアが赤ん坊の頃に、魔穴で飛ばされて生き残ったのは本当のことで、話を合わせるのにも無理はなかった。
大体、赤ん坊の頃のことなど、誰だって記憶にないものだ。
マーサは感慨深げに頷いた。
「失ったと思っていた子が帰るなんてこともあるもんなんだねぇ……。明後日出ていくなんて急で、寂しいけど、親族が見つかったのは良かったよ……」
その瞳が僅かに潤む。
「でも、ディード様と領内へ行くのなら、アッシュはどうするんだい?」
フラウレティアの左肩には、今もアッシュが止まっている。
「……今すぐには領内へは連れていけないので、一時的に魔の森へ帰すことにします」
実際は一緒に行くが、そんなことは言えない。
マーサは眉を下げる。
「アッシュも家族なのに、離れないといけないのかい……」
それはそれで寂しいね、とマーサが小さく溜め息をつきながら呟いた。
突然身に降り掛かった愛しい肉親との別れが、彼女の心身を大きく損ねていることは、誰が見ても明白だった。
厨房を出たフラウレティアは、建物を出たところで、医務室に向かっていた足を止めた。
薄い腰掛け鞄を開き、その中から、小さな物をそっと取り出す。
それは、アーブの花を型どった木彫りのお守りだった。
魔の森で魔穴が発生した時、騎士の骸にぶつかるようにして、フラウレティア達は魔穴に巻き込まれた。
その際に落とした腰掛け鞄を、アッシュが後日拾って戻ったのだが、鞄の留具にお守りが引っ掛かっていたのだ。
誰かの想いが込められたお守りを捨てることができず、フラウレティアは今まで鞄の中に入れたままだった。
「……これ、マーサさんに返すべきだよね」
フラウレティアがポツリと呟くと、左肩に乗ったアッシュが怪訝そうに彼女の顔を覗き込む。
「これね、マーサさんの息子さんの物だったんだ」
フラウレティアがお守りを揺らして見せた。
黒い霧の中で共鳴した時、フラウレティアには様々な気持ちが流れ込んだ。
精霊と共鳴しただけでなく、不浄に取り込まれていた多くの騎士や兵士達、帰りたいと願う者達の気持ちが、共鳴して流れ込んだ。
その時に、見えたのだ。
このお守りを持っていた騎士が帰りたかった場所が。
家族の待つ故郷。
お守りを渡し、無事を祈ってくれた母親。
その顔は、確かにマーサだった。
フラウレティアは唇を引き絞る。
母親とはこういうものかと思わせてくれた、マーサの温かな心。
今、その彼女の心を苛むのは、最愛の息子の生命を理不尽に奪われた事実だ。
せめて彼女に、息子の残された心を届けることが出来れば、あるいは彼女の心も少しは癒やされるのではないだろうか。
フラウレティアが考え込んでいる内容を訝しんで、アッシュがフンと軽く鼻を鳴らす。
「ねえ、アッシュ。ギルティンさんにしたみたいに、マーサさんに息子さんの心を届けられないかな」
〘 はあ? 〙
誰が側にいるとも限らない所では、例え竜人語であっても声を出さないアッシュだったが、思わず一声出してしまって、急いで口を閉じる。
何言ってるんだと言わんばかりに、尻尾で背中を叩かれて、フラウレティアは口を尖らせる。
「痛いって。……ギルティンさんに魔力を流すのは上手くいったみたいだったし、同じようにすれば、マーサさんにも……」
「やめとけ」
突然背後から声を掛けられ、フラウレティア達は振り返る。
建物の入り口の所に、凭れ掛かるようにしてギルティンが立っていた。
その顔には呆れが滲んでいる。
「ギルティンさん」
挨拶するように軽く片手を上げて、ギルティンは片足をやや引きずって側に来た。
「嬢ちゃんのしてくれたことは、本当に感謝してる。だがな、ホイホイと誰にでも見せるべきじゃない」
ギルティンは、フラウレティアが口を開く前に、彼女の瞳を覗き込んだ。
「嬢ちゃん、あの力を、思い通り制御出来てないんじゃないか?」
フラウレティアが小さく息を呑むと、ギルティンは続ける。
「あの共鳴で、俺は嬢ちゃんの事情もちょっと見えちまった。アッシュがどういう者なのかってこともな」
フラウレティアは目を大きく見開いた。
アッシュが睨むようにギルティンを見上げる。
深紅の刺すような視線に怯まずに、ギルティンは小声で言った。
「アッシュは竜人族、だろ?」




