耐え難い事実
「ディード様、なぜそんな嘘を?」
執務室に戻って来て、レンベーレから事を説明され、アイゼルは愕然として問うた。
「フラウレティアがアンナではないことを、ご存知の筈でしょう!?」
ディードは深く息を吐いて、額に手をやった。
確かにディードは、フラウレティアがアンナであるはずがないことを知っている。
アンバーク領の旧領主館が魔穴に飲み込まれた時、ディードとアイゼルはその瞬間を目の前で見たのだから。
十四年前、領主館がザクバラ兵に急襲を受けているとの報告を受けて、準備もそこそこに砦から飛び出したディードは、部隊の統率を他に任せて無我夢中で馬を駆けた。
団長としての役割は頭から吹き飛んでいた。
愛する妻と、生まれてまだ一年にも満たない愛娘が、領主館にいるのだ。
本来ならば、領内の東端にあるディードの邸宅で過ごしているはずの妻と娘。
季節に一度、十日の休暇でしか会えない距離であるために、その頃のディードは、娘に顔を忘れられてしまうのではと、随分と嘆いていた。
息子のそんな姿に同情して、当時の領主であるディードの父は、領主館に妻子を滞在させることを提案した。
領主館は、ザクバラ国との国境に近い郊外にあり、アンバーク砦から馬で半刻弱の距離だ。
数日に一度程度なら、公務外の時間に娘の顔を見に来ることくらい出来るだろう。
領主への辺境警備の報告に訪れることだってある。
兄嫁との仲が良い方だったのも手伝って、愛妻は『仕方のない人ね』と笑いながら了承してくれた。
数日毎に館を訪れ、妻と触れ合い、すくすくと成長する娘の笑顔を見て抱き上げることは、ディードにとってこの上ない喜びだった。
ディードが焦燥に押し潰されそうになりながら馬を駆け、館の正面が目視できる程度まで近付いた時、それは起こった。
屋敷中央部から、巨大な何かが飛び出してくるかのように、館が膨れ上がり破裂していく。
ザクバラ兵の急襲を知って、衛兵の誘導で避難しようとしていた屋敷の人間達は、その爆音に驚いて振り向いた。
そして、背後から襲う異常な事態に、我を忘れて駆け出す。
それはあっという間だった。
破壊の波動が届く前に、爆風のような圧が彼等を飲み込む。
圧は次々と人間や馬を飲み込み、吐き出すように空中へ飛ばした。
―――巨大な魔穴だった。
ディードとアイゼルの視界の中で、愛する者達は舞い上がり、地面に叩きつけられた。
張り裂けそうな叫びと共に突き出されたディードの手は、届くはずもなかった。
「…………アンナではない。分かっている。だが、フラウレティアが婚外子だという噂を、私は聞き流すことは出来ない」
ディードは苦し気に顔を歪めた。
「妻以外と子を成したなどと……、噂でも……」
執務机の側で、椅子の背もたれをキツく握り、ディードは声を絞り出した。
フラウレティアが婚外子であれば、それはアンナが生まれる頃と同時期に、妻とは別の女性を抱いたことになる。
それを疑われることは、ディードの腹の底から怒りを湧き上がらせた。
妻子を亡くしてから、それに関わる己の部分に、潔癖とも言える守りを敷いて生きてきたディードには、どうしても受け入れられない噂だったのだ。
前領主であった父と、兄達、その家族。
妻子と共にその全てを亡くしたディードが、新領主として辛うじて立ってきた痛みを知っているだけに、アイゼルはこれ以上問い詰めることが出来なかった。
レンベーレもまた、同じ思いでアイゼルと視線を交わして黙っていた。
ギルティンは、ディードの私室でフラウレティアと向き合っていた。
約束通り、フラウレティアの目が覚めたことを、ディードが知らせに来てくれたのだ。
その時にディードがフラウレティアを『娘』だと宣言したことには驚いたが、そんなことは今はどうでもいい。
フラウレティアが食べた後の食器を、かなりぎこちない態度でエナが下げる。
固い表情でベッドの側の椅子に座るギルティンを、一度ちらりと見やった。
ディードに前もって指示されていたのだろう。
エナはフラウレティアに気遣うような視線を向けたが、黙ってそのまま部屋を出て行った。
エナが完全に扉を閉めるのを待って、ギルティンは口を開いた。
「……体調は?」
「何ともありません。もう起きるって言ったんですけど、ディード様が今日一日は様子を見なさいと仰って……」
そもそもどうしてギルティンが会いに来たのか、フラウレティアには分からない。
それで、自然と返事をしながら彼の様子を窺った。
彼は身体中、手当てをされた跡があった。
そしてそれ以上に、その瞳が暗い。
疲れ切っていて、フラウレティアの体調を気遣うよりも、彼の方が余程休んでいなければならないように見えた。
「ディード様の言う通り、休んでいた方がいい。あれほど濃い不浄の中にいたんだ。気味の悪い塵だって、だいぶ吸い込んだだろう」
ギルティンの口から出た言葉に、フラウレティアは固まった。
ベッドの上で側に添っていたアッシュが、僅かに顔を上げて深紅の瞳を油断なく光らせる。
不浄の黒い霧の中にいた時、隠匿の魔術符は確かに効果を発揮していた。
あの場にフラウレティアとアッシュがいた事を、ギルティンが気付いていたはずがない。
フラウレティアはアッシュの鬣に手を置いたまま尋ねた。
「……それはどういう意味ですか?」
「言葉通りだ」
ギルティンは素っ気なくそう言って、握っていた右手を突き出すと、フラウレティアの前で開いた。
「この石は、嬢ちゃんの物だよな?」
ギルティンの掌の上には、コロンと丸っぽい乳白色の石がある。
一部分だけ、削られて平らになっている浄化石。
フラウレティアの持ち物だ。
「それは……」
「嬢ちゃんの浄化石だろ。厨房で窃盗未遂があった時、確かにこれを見た」
厨房の下女が、フラウレティアの腰掛けカバンから盗ろうとした物で、あの場にいた厨房の者や集まった兵士達はそれを目にしていた。
浄化石に限らず、魔力を通す魔石は、どれも大きさや形を極力加工しない。
加工することで、本来留めることが出来る魔力が、漏れ出すことになる場合があるからだ。
しかし、フラウレティアの持っていた浄化石は、明らかに人工的にカットされてあった。
それは、どこで使っても転がらないよう、ハルミアンが加工したものなのだが、ギルティンには知る由もない。
分かるのは、この石が珍しい形の物で、間違いなくフラウレティアの私物だということだ。
「……あの忌々しい魔獣が倒されて、俺はあの場所に戻った」
ギルティンは強く奥歯を噛む。
黒い霧が晴れた時、誰よりも先に我に返ったのはギルティンだった。
不気味に開かれたあの場所を、あの時、誰よりも先に、必死に中心部だった所へ向かった。
ナリスの生死を確認するためだ。
いや、もう手遅れなのは分かっていた。
それでも、自分の目で確かめずにはいられなかった。
多くの骸を避けて気力だけで走り、無惨な姿で横たわるナリスを見つけたギルティンは、ただ息を切らして、彼女の側に力なく膝をついた。
そして、まだ温かい彼女の頬に手を伸ばした時、見つけたのだ。
泥と血にまみれて地面に広がる髪の上、陽光を反射してキラリと光る乳白色の石を。
「あの時、あそこにいたのは嬢ちゃんだよな?」
フラウレティアを見つめ、ギルティンは静かに言った。




