多くの噂
厨房に立つマーサは、どっしりとした体型は変わらないのにやつれた印象で、顔色もあまり良くなかった。
「もう、働いて大丈夫なんですか?」
エナの気遣うような声に、マーサは苦笑いの様な表情で応える。
「……じっとしてたって、滅入ってばっかりだからさ。動いてる方がいいのさ」
周りにいる厨房の人間は、一様に居た堪れないように視線を落とした。
平原から回収された騎士達の骸の中には、平民出から騎士になった、マーサの息子が含まれていた。
比較的損傷の少なかった彼の骸は、すぐに身元が判明し、厨房のマーサに知らされた。
変わり果てた息子を前にした時、マーサは獣のように咆哮して泣き叫んだ。
日々厨房を頼もしく仕切り、まるで若い兵士達の母のようにお節介を焼いて面倒を見ていた、明るく朗らかな彼女の慟哭に、周囲の誰一人動くことが出来なかった。
マーサはそのまま寝込み、二日間厨房に姿を見せていなかったのだった。
「……本当に、とんでもないことが起きたもんだよ」
背の高い料理人が、ボソリと呟いた。
「この砦に長く勤めてるけど、こんな異様なことは一度だってなかったのに……」
それは、誰もが思っていることだったのだろう。
下働きの下男が続けて口を開いた。
「……あの翼竜が来てからだ。翼竜が何か悪いものを呼び寄せたんじゃ……」
エナは強く眉根を寄せた。
確かに、翼竜なんてものは、街で普通に暮らしていれば、一生見ることなんてなかっただろう。
そんなものが突然現れて、砦に居座っていれば、不吉なものを呼び寄せたと思ってしまうのかもしれない。
だが、『翼竜が来てから』という言葉は、暗に『フラウレティアが来てから』という意味も含まれている。
現に、自分だって気味が悪いと思っていた。
しかし、フラウレティアと翼竜があの魔獣を倒したのだと知っている今は、彼等が不吉なものを呼び寄せたという言い掛かりを放っておけない気がした。
何も知らないのに、勝手に不吉をなすりつけるなと、この場ではっきり口にしたかった。
息を吸って口を開きかけたエナの目に、下女の姿が映った。
フラウレティアの腰掛けカバンから、石を盗もうとした下女だ。
彼女はエナに見つからないように、小さくなって目線を逸らしている。
『例え誰が罪を犯しても、裁くのはお前ではないよ、エナ』
不意に、ディードの声が耳に甦った。
ここでフラウレティアと翼竜を養護する発言をするのは、たまたま翼竜の本当の姿を知ったからだ。
フラウレティアが、どんな言葉を吐いて平原へ向かったか知っているから。
そうでなければ、自分こそが『翼竜とあの少女は不吉だ』と言い振れていたのかもしれない。
エナは言葉に詰まった。
主観だけで他者を断じることは、どれだけ簡単で身勝手な行為なのか。
今になって、それを感じた。
「いい加減な事を言うんじゃないよ。ここであんなにいい顔して料理を頬張る翼竜が、不吉なもんであるわけないだろう」
側に立ててあった大きな木べらを持って、マーサが言う。
しかしその言葉には、彼女らしくなく、力がこもっていない。
「第一、誰にでも不吉に思えるような存在を、ディード様が砦に留めるもんかね」
はあ、と溜め息をついたマーサを見て、見習い料理人と下男達が不自然に顔を見合わせ、小声で言う。
「だって、なあ……?」
「なんだい。言いたいことがあるなら、お言いよ」
訝しんで見たマーサとエナに向かって、見習い料理人がおずおずと口を開いた。
「ディード様が翼竜を留めるのは、……ほら、フラウレティアの従魔だから、仕方なくだろう?」
「……どういう意味だい?」
見習い料理人は、チラリとエナを見た。
「フラウレティアは、ディード様の娘じゃないかって噂、本当なのかエナ」
病棟代わりに使われている別館の廊下では、ギルティンが軽症の兵士の胸ぐらをつかんでいた。
「いい加減な事を言いふらすんじゃねぇ!」
「隊長! 待って下さい。ちょっと落ち着いて……」
ギルティンが今にも殴りかかりそうに見えて、側にいた兵士が間に入った。
「お、俺が言ったわけじゃありません。ただ、そんな噂がされているってだけで……」
ギルティンに迫られていた兵士は、何とか手を離されると、及び腰で言った。
「だから、それを無責任に広めるなと言っているんだ!」
「隊長ってば!」
再び掴み掛かる勢いのギルティンを、兵士が止める。
「あっ、すみません!」
腕を取った途端、ギルティンが軽く呻いたので、兵士は急いで謝った。
ギルティンは、どこを触られても呻かねばならない程、身体のあちこちを痛めている。
部屋で大人しくしているべきだろうに、じっとしていられないのか、廊下に出て来ていた。
そして、窓際で兵士達の噂話を聞いた。
内容は、翼竜が諸諸の不吉を呼び寄せたのではないかということ。
そして、翼竜を連れたフラウレティアが、特別にディード団長の私室に匿われているという事実だ。
「団長があんな少女を手厚く養護する理由っていったら……」
兵士は、なんの騒ぎかと周囲に集まる人々を見回した。
その多くが、おそらく既にこの噂を耳にしていたのだろう。
曖昧な表情で顔を見合わせる者が多い。
フラウレティアはディードにとって、何者なのか。
どこか閉塞した雰囲気の砦内で、今その話題は多くの者が予想を口にし、耳にしていた。
ディードがフラウレティアを匿う理由。
一番耳にするのは、彼女がディードの婚外子だからではないかというものだった。
ギルティンは強く眉根を寄せた。
「あの娘を匿うのは、そんな理由じゃ……」
しかしはっきりと否定できる理由はない。
実際、フラウレティアと翼竜がこの砦に来たのは、偶然だ。
そこに色々な要素が絡んで、砦から出さないという選択をしたのはディードだ。
その一つ一つをギルティンも全ては知らされていないのに、それ以上に知らない兵士達にどう説明すればいいというのか。
「……我が子じゃないっていうなら、その方が問題じゃないか……」
誰が呟いたものだか、人混みの中からそんな声が聞こえた。
そこから僅かに、卑猥な嘲りの様な響きを感じて、一部の者達の表情がいやらしく歪む。
フラウレティアがディードにとって何者なのかという噂の中には、彼女が婚外子であるというもの以外も含まれる。
ディードの性癖が年若い者を好むというものも、その一つだった。
ギルティンはカッとなった。
「今の、誰が言いやがった!」
「ちょっ……、隊長ってば!」
人混みに突進しそうな勢いのギルティンを、急いで止めながら、兵士は焦る。
一体何事かと、人集りはいつの間にか大きくなり、収拾がつかない状況になりつつあった。
「気をつけ!」
訓練で誰もが聞いたことのある、力の籠もったよく通る声が響く。
条件反射で、兵士達はその場で直立不動の姿勢をとった。
兵士でない者も混ざっていたので、全ては整わなかったが、一瞬で場が静まり返る。
「団長……」
人混みの後ろから現れたのは、エイムとレンベーレを従えたディードだった。
ディードは静かに、ここに集まっている人々を見渡す。
しかし、その目には僅かに怒りにも似た感情が滲んでいるように見えた。
「私の行動で皆を煩わせた事は遺憾だ」
一言の後、ディードは皆に聞こえる程に深い息を吐いた。
「これ以上砦内を混乱させるのは本意ではないので、皆に言っておく。フラウレティアは私の婚外子ではない」
そして真っ直ぐに視線を上げて口を開く。
「あの娘は行方知れずだった私の娘だ」




