周りの人々
フラウレティアが目覚めたと、最初に連絡を受けたのはエイムだった。
日の入りの時刻から一刻半以上経っていたが、まだ医務室で仕事をしていたエイムは、知らせを受けて、急いでディードの私室に向かった。
「フラウレティアさん、良かった……」
まだベッドから出ることを許されないフラウレティアは、ディードのベッドを占領したまま、安堵の息を吐いたエイムを見上げた。
フラウレティアの横には、翼竜姿のアッシュがぴったりと添っていて、彼女の太腿の上に顎を乗せて目を閉じている。
フラウレティアが目覚め、落ち着くまで泣かせてやると、アッシュは翼竜に変態して側に添った。
こうしてエイムや世話をする下女など、人が出入りすることが分かったからだ。
アッシュにとっては、人形であろうと竜の姿であろうと、フラウレティアの側に居られるのならどちらでも良いのだった。
心配そうな表情を向けるエイムに、フラウレティアはペコリと頭を下げる。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」
「本当ですよ。……随分目が腫れてますね。泣いたんですか?」
エイムが顔を覗き込む。
フラウレティアの目は、泣き腫らして真っ赤になっていた。
「……悲しい夢を見ちゃって」
フラウレティアは小さく笑って、恥ずかしそうに目を伏せた。
フラウレティアはあの日、本館の屋上で倒れているところを見つかったことになっていた。
遠眼鏡で、不浄にまみれた魔獣と戦いの顛末を見て倒れたらしいと、皆には説明してある。
しかし、エイムにしてみれば、理由はこの際後回しだ。
あの時、壁外の様子を見ると言って、フラウレティアは急に医務室から飛び出して行った。
飛び出して行ったまま、戻って来なくて心配していたのに、屋上で倒れていたというのだから仰天した。
もっと強く止めるべきだったと、どれだけ後悔したことか。
ディードが、フラウレティアを私室に据えたことには戸惑ったが、とにかく合間を縫ってエイムは彼女を何度か診察した。
その間、翼竜アッシュはフラウレティアの右手に掴まって、早く目を覚まさせろと言わんばかりに、診察するエイムを睨んでいた。
身体の機能に異常は見当たらず、なぜ眠っているのか分からない。
そうして、もやもやとした思いと心配を抱えたまま、今日を迎えていた。
「……少し疲労は見られますが、特に異常はなさそうですね」
診察を終えたエイムが安堵の息を吐いた。
「それにしても、こんなに眠り続けるなんて、フラウレティアさんは持病か何かあるんですか? 原因になるようなことに、心当たりは?」
「……いえ、特には」
フラウレティアは俯き加減に、彼女の太腿に顎を乗せるアッシュの鬣を撫でる。
アッシュがチラリと目を開けて、気遣わし気に見上げた。
エイムは内心眉を寄せ、改めてフラウレティアを眺める。
特には何もないと言うが、具合も悪くないのに数日眠ったままなんてことがあるだろうか。
ここ数日のせいで、少し疲れた感はあるものの、今も彼女は健康そのものだ。
そして、ふと彼は思い出す。
以前にフラウレティアが痛めた足は、予想していたよりもずっと早く治ってしまったことを。
「エイムさん?」
黙ってしまったエイムを、フラウレティアは不思議そうな表情で覗き込んだ。
「え?……ああ、何でもないです。とにかく、良かった。何か食べられるようなら食べて、まだ少し、休んで下さいね」
エイムはフラウレティアの肩を優しく叩いて立ち上がる。
自分の理解の範囲を超える存在を前にした時、多くの人間はそれに畏れを感じるものだ。
エイムもまた、目の前の少女に得体の知れない何かを感じた。
しかし、こちらを真っ直ぐに見返す曇りのない瞳に、恩師グレーンの視線が重なった気がして、その畏れを打ち消した。
多くのものに惑わされそうな時、地に足をつけ、目の前の事から目を逸らさず、出来ることを余すことなく行う。
自分の真っ直ぐな心で感じることを信じ、その心を曇らせない。
師は、薬師としての知識や技能だけでなく、生きていく上での姿勢を、そう教えてくれた。
その敬愛する師が、残された最期の時を使って見守ったのは、フラウレティアだ。
それならば、エイムもまた、出来る限り彼女を見守る一人であろうと思った。
エイムが部屋を出ると、ちょうどディードが廊下をこちらに向かって進んで来た。
挨拶を交わし、フラウレティアの体調に心配はないことを伝える。
そして、エイムは一拍おいて、声を落とした。
「ディード様。言い難いことですが、……フラウレティアさんのことで、少し気になる噂がたっています……」
ディードは眉根を寄せた。
翌朝、日の出前の人気のない食堂を、エナは足早に厨房に向かっていた。
エナは、ディードに屋上で見た全てを話してからも、今までと同じように従僕として働いていた。
ディードは、アンバーク領内の現在の領主屋敷に戻ることを提案してくれたが、エナは断固として断った。
ディードの側で、僅かなりとも役に立つことが、エナにとって一番望むことだからだ。
正直、アッシュが竜人族だということをディードから告げられた時は、信じられない気持ちと、恐ろしい思いでいっぱいになった。
伝説の域だった竜人が、そんなに近くにいたということに驚愕した。
しかしそれ以上に、フラウレティアに感じていた、得体の知れない気味悪さの正体が知れて、どこか安心した。
いや、本当は今も、気味が悪いと思っている。
フラウレティアの、人間離れした行動と能力。
それは、あまりにも自分と違い過ぎる。
それでも、理由が分からず気味悪がっていた時とは、気持ちの持ちようが違う。
少なくとも彼女はあの時、エナが何も出来ないと自分に言い聞かせていた、あの時、砦の皆を助ける為に動いたのだから。
まだ食堂に人はいないが、厨房では既にパンの焼ける香ばしい香りや、スープの温かな湯気が立ち込めている。
火の季節の今は、いっそ暑いと感じる程だ。
厨房に入ったエナは、中で忙しなく働く人々の中に、一際存在感のある女性を見付けて口を開いた。
「マーサさん」
マーサは定位置の大鍋の前に立って、火の加減を見ていた顔を上げる。
「ああ、おはようエナ」
そう言った彼女の声は、いつもの様な覇気はなかった。




