ひとりにしないで
日の入りの後、アンバーク砦のディードの私室に入ったレンベーレは、ベッドの側に近付く前に美しい顔を引き攣らせた。
「……ちょっと、『表に出ない、役に立たない魔力』なんじゃなかったの?」
思わずそんな呟きが口から漏れた。
レンベーレの目には、フラウレティアの眠るベッドの周りを、強い魔力が覆って見えた。
フラウレティアから立ち上っているのか、時折ゆらりと揺れる。
それに引かれるように、精霊の光が揺れたり消えたりしていた。
「……草原で精霊と共鳴してから、ずっとこんな調子なんだ」
相変わらずフラウレティアの右手を握ったまま、アッシュが力なく言った。
アッシュにも、訳が分からない。
ドルゴールにいた時は、フラウレティアはどんなに魔術の練習を重ねても、発現するまでには至らなかった。
身体の内にある魔力を、彼女の意思で外へ出してやることが出来なかったからだ。
それが今は、ほんの僅かな衝撃があれば暴走してしまいそうな程に、魔力が溢れ出している。
手を離せば、取り返しのつかないことになりそうな予感がして、アッシュは側を離れられないでいる。
レンベーレは、慎重にベッドに近付き、その魔力を観察する。
フラウレティアから立ち上る魔力は、まるで精霊達と繋がっているように、互いが離れず、同じ調子で揺れているように見える。
本来ならば、精霊の光は人間には曖昧にしか見えないものだが、フラウレティアの魔力と繋がっているからなのか、かつてない程にはっきりと見えた。
「精霊と共鳴したと言ったわよね? そんなこと、今までも出来たの?」
アッシュは小さく頭を振る。
「いや……、だが、『時々精霊と通じ合えているような感覚かある』と聞いたことがある」
『精霊彼等の、喜びや悲しみを感じるような気がするの』
フラウレティアは以前、確かにそう言っていた。
「『通じ合えている』、か……。同調から魔力干渉に発展したのかしら」
「同調?」
レンベーレの呟きを拾って、入口近くから見守っていたディードが尋ねる。
「ええ。例えば喜びや悲しみなんかを、側にいる人が受け取って自分自身に重ね合わせる、それが同調です。フラウレティアは、精霊と同調してしまって、結果的に魔力干渉になったんじゃないでしょうか」
ディードは更に疑問を重ねる。
「魔力干渉とは何だ?」
「簡単に言えば、魔力同士が繋がって、何らかの影響を与えることです。物相手や人間同士ならそれ程深く干渉出来るものではないのですが、精霊相手では、私にもなんとも……」
レンベーレは、改めてフラウレティアを見つめる。
おそらくフラウレティアは、精霊と共鳴したまま、離れられていないのだ。
それが、たまたま事故のようなものなのか。
それとも、彼女が故意に離れようとしていないのかは分からない。
「何にせよ、ずっとこのままでは、身体が保たないし、魂が壊れてしまうでしょう。意識を引き上げないと……」
「どうしたらいい!?」
食い気味に尋ねて、アッシュはレンベーレを見上げた。
―――もう、そんな目をして見ないでよね。
そう思って、思わずレンベーレは苦笑しかけた。
見上げるアッシュが、縋るような目をしているのだ。
竜人族とは、尊大で重厚な存在感を持つ、上位種族だったはずだろうに。
主人に置いて行かれた仔犬のような目で、見上げないで欲しいものだ。
レンベーレは小さく首を傾ける。
太く編まれた赤褐色の髪が、肩を滑り降りて揺れる。
「ねえアッシュ、どうして手を離さないの?」
「……何となくだ。……ただ、離れたらいけないような気がして……」
アッシュにもはっきりとは分からない。
ただ、そんな気がするというだけだ。
「それが答えなんじゃない?」
レンベーレが軽く肩を竦めるので、アッシュは怪訝そうにする。
「答え?」
「ええ。私に魔力は見えるけれど、さすがにこんな事態は初めてだわ。おそらくどんな魔術士でも、手に負えないでしょう。検証なら幾らでもするけれど、そんなものは今必要ない。……あなた達は、特別だもの」
レンベーレは細い指で、アッシュが握ったフラウレティアの右手を指す。
「竜人と人間の絆なんて、今やあなた達以外に存在してないのよ。だから、あなたが必要だと思うなら、手を握るその行為は二人にとって必要なことなのよ。あなたが側にいて触れていることで、おそらくフラウレティアは魂を留められているんだわ」
アッシュは握る手の力を少し強める。
アッシュには魔力ははっきり見えても、その動きの意味や扱いは良く分からない。
だが、フラウレティアを囲むように集まる精霊達に、彼女が攫われるような気がして、決して離れてはいけないと思った。
その勘が正しかったのだと言われて、僅かに安堵する。
しかし、だからといってこのままではいけない。
「俺には難しいことは分からない。教えてくれ、レンベーレ。フラウを目覚めさせるには、どうしたらいい?」
アッシュは心から助言を乞うた。
人間を相手に、いや、他者に本気で助力を求めたのは、赤ん坊のフラウレティアを拾って来た時以来かもしれなかった。
アッシュのその様子を見て、レンベーレも真剣に頷いた。
側に膝をつくと、二人の手が合わさっている部分を、目を眇めて見つめる。
「見て。ここだけ、あなたの魔力とフラウレティアの魔力が混ざっているわ。ここから、彼女の意識を引き上げるの。あなたが彼女に魔力干渉して、精霊から引き剥がすのよ」
「共鳴……」
レンベーレは頷く。
「精霊との共鳴を上回らなければならないわ。あなたとフラウレティア、何か二人だけに共通する強い思いを共鳴させるのよ」
アッシュは握った手を見つめたまま、眉根を寄せた。
二人だけに共通する強い思い。
それはなんだろう。
ドルゴールへの愛着か?
今までずっと一緒に生きてきたのに、これだとはっきり言えるものが見つからない。
ずっとずっと、側にいたのに、彼女が心から望んでいるものはと考えると、分からなくなる。
強い思いって?
この三日間、手を握り、目を開けてくれと願い続けていた。
それでもフラウレティアが目覚めないのは、目覚めてここに戻ってきたいという気持ちが、精霊との共鳴に負けるほどのものだということなのだろうか。
アッシュの胸が、ズキンと痛んだ。
「フラウ、俺はバカだから、分からない。教えてくれよ……、何を望んでた……?」
アッシュは握る右手に額をつける。
目を開けてくれよ。
フラウがいてくれたら、それでいいから。
側にいてくれよ。
フラウがいてくれないと、俺はどうしたらいいのか分からなくなるんだ。
「……フラウ。……フラウレティア!」
俺を、一人にしないでくれ―――。
突然、パッと精霊の光が散った。
レンベーレは反射的に目を細め、前に手を上げる。
何も見えないディードすら、一瞬構えた程に空気が変わった。
「アッシュ!」
ベッドの上のフラウレティアが、身体を大きく震わせて目を開けた。
フラウレティアの声に驚いたアッシュが、弾かれるように頭を上げる。
二人の視線がぶつかった。
「フラウ!」
「アッシュ!」
フラウレティアが跳ね上がるように身体を起こした。
「いやだぁ……一人にしないで……!」
ブワと涙を溢れさせて、フラウレティアが両腕を伸ばした。
「アッシュ、行かないで!」
アッシュは堪らずベッドに乗り上げて、フラウレティアを抱きしめる。
「一人はいや!……いやぁ……」
フラウレティアがこんなにも感情的に泣き叫ぶのは、初めて見た。
「ここにいる! 俺はここにいる。一人にしたりしない!」
固い大きな爪のある手で、アッシュはフラウレティアの頭を抱えて、ぴったりと胸に引き寄せた。
尻もちをついた格好で座り込んでいたレンベーレを、近付いたディードが助け起こした。
「……魔力は、収まったみたいですね」
立ち上がったレンベーレが、部屋の中を見回して言った。
精霊の光は一つ残らず消え失せている。
ベッドの二人を見て、ディードも一先ずは、そっと安堵の息を吐いた。
アッシュの身体に縋り付き、フラウレティアはわんわんと泣き続けていた。




