隠されていた声
突然の変化に驚いて、フラウレティアは瞬いて顔を上げた。
周辺には変わらない黒い霧が広がっている。
それなのに、あれ程うるさかった声は消えていた。
代わりに、さわさわとさざ波のように聞こえてくるのは、泣きたくなるような柔らかく小さな声たち。
かえりたい
その声を聞いた途端、亡くなった兵士の指に掛かっていた、木彫りのアーブの花を思い出した。
死の間際に握っていたお守り。
そうだ。
彼は帰りたかったのだ。
彼の無事を祈ってくれた、大切な人の元へ。
苦しみも悲しみも感じたはずだ。
しかし、最後に心に残ったのは、理不尽な死に対する怒りでも呪いでもない。
ただ、彼を待つ人の元へ帰ること。
その純粋な願いの結晶が、確かに今も残っている。
フラウレティアは、そのさざ波のような声を辿る。
辺りを見回した時、魔獣の直ぐ側にいるというのに、フラウレティアの方へ意識を向けていたアッシュと目が合った。
一瞬心配そうな目をして、何かを言いた気に口を開いたアッシュを見て、フラウレティアの胸は切なく締め付けられた。
ドルゴールへアッシュが帰っていた時、本当は寂しくて堪らなかった。
早く帰ってきて欲しかった。
ちゃんと一緒にいる。
大丈夫だと、大きな爪の付いた手で頭を撫でて欲しかった。
早く、早く帰ってきて。
私の隣に、ここに戻って来て。
フラウレティアの気持ちが、さざ波のような声に同調した。
魔獣を取り巻く不浄のモヤが、ざわりと揺れた。
アッシュに向かって襲い掛かろうとしていた、触手のような塊が、苦しいというようにバタバタと振れる。
「何だ?」
アッシュは視線を魔獣に戻し、剣を構えたまま、周りで激しく散る黒い塵を手で払いながら、その様子を凝視する。
さっきまで聞こえていた叫びのような声が、急速に小さくなった。
途端に、魔獣の周りから不浄のモヤが弾かれ、精霊達の光が溢れ出す。
「フラウ、やったのか!?」
アッシュが振り返った瞬間、フラウレティアが飛び込んで来て、彼をギュウと抱きしめた。
驚いたアッシュを、深紅の瞳を涙で潤ませたフラウレティアが見上げる。
「アッシュ、おかえり。おかえり……」
フラウレティアはさっきまでの様子と違う。
「フラウ!?」
アッシュが剣を持っていない方の手で、彼女の肩を揺するろうと手を伸ばした。
その肩に振れる前に、驚いて目を見開く。
フラウレティアの身体から、柔らかな魔力が滲むように溢れ、精霊達の光と共鳴するように揺れている。
フラウレティアは、ここではないどこか遠くを見るような目で、ぐるりと周りを見回した。
「……うん、帰ろう。皆、いるべき所へ」
フラウレティアの言葉と共に、精霊達の光が二人の頭上を旋回する。
それに巻き込まれるように、不浄のモヤが舞い上がった。
魔獣を覆っていた黒いモヤが薄まると、クマのような巨躯が震えた。
―――生きている。
不浄を縫い付けているのは、間違いなくあの魔獣の存在だ。
討伐目的でここに来たわけではなかったが、フラウレティアをこれ以上煩わせない為に、ここで仕留めておくべきだ。
アッシュは素早くフラウレティアの身体を背中側に離し、剣を構えた。
既に付与された神聖力の効果は切れかかっているのか、剣身に残された光は僅かだ。
アッシュは力強く魔獣に向かって踏み込んだ。
残されたモヤが向かってきたが、それを避けることなく、力いっぱい魔獣の首に剣を振り下ろす。
振り下ろした剣は、僅かな手応えをアッシュの腕に伝えると、難なく魔獣の首を刈った。
その瞬間、魔獣の身体が弾け跳ぶように散った。
そしてそこから、多くのものが溢れ、飛び出した―――。
「隊長っ!」「ギルティン隊長!」
光の当たった黒い霧の表面から、ギルティンが二人の兵士を抱えるようにして倒れ出てきた。
救護隊の兵士が駆け寄る。
離れた所で、先に出てきた兵士を診ていた救護隊兵も、ギルティンの姿を見て喜びを滲ませる。
「大丈夫ですか!? すぐに手当てを……、わっ!」
側に寄った救護兵は、手を伸ばそうとして、ギルティンが抱えていた兵士二人を押し付けられる。
怪我をした兵士二人にのし掛かられる格好になって、救護兵がよろけると、ギルティンは彼が持っていた救護バックをひったくるようにして取った。
そしてそのまま踵を返す。
「俺は中に戻る。こいつ等を頼む」
「え!? ま、待って下さい、隊長!」
救護兵は慌てて兵士を草の上に下ろして、ギルティンを引き止める。
どう見ても、彼も多くの傷を負っている。
「無茶ですよ! 隊長も手当しないと……」
「まだ助かるかもしれないんだ!」
引かれた腕を強く払って、ギルティンは声を張る。
そして、『助かるかもしれない』という、自分の言葉に息を詰まらせる。
「……まだ……っ」
口に出せば、それはとても虚しい望みだった。
そんな可能性はもうないことが分かっていた。
彼女の命は、もう……。
それでもここでじっとしていることは出来ず、歯を食いしばって、黒い霧の中へ戻ろうと足を踏み出した時だった。
半球状の黒い霧が、空に向かってボッと音を立てて破裂した。
驚いて半球状のてっぺんを見上げたギルティン達を、一拍遅れて、ゴウッと突風が不浄の中心方向から吹きつけた。
あまりに突然のことで、ギルティン達は構えることが出来ず、外向きに一斉に薙ぎ倒される。
反射的に草の上に手をついたギルティンの頭上を、ゴウゴウと音を立てて風が暴れ狂う。
風には不浄の塵も混ざっていて、何とか薄目を開けて様子を見ようとしても、何も見えない。
どうすることも出来ず、ただこの暴風が収まるのを、伏せて大人しく待った。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
身体を地面に押し付ける様に吹き付けていた風が、突然収まった。
激しい風の音も止んでいる。
ギルティン達は、恐る恐る顔を上げる。
暴風が去った今は、殆ど無風だった。
周囲に散っていた黒い塵は消え、重苦しく感じていた不浄の気配はない。
ギルティンの正面で起き上がった救護兵が、彼の背後を見て驚愕の表情で固まった。
ギルティンは即座に振り返って、目を見開く。
不浄は全て祓われていた。
黒い霧で覆われていた場所は、晴れ渡り、燦々と降り注ぐ陽光に照らされている。
「…………何なんだ、これは……」
ギルティンは呆然と呟いた。
混戦で荒らされた草原には、砦の壁門を出てドルゴールを目指した、多くの騎士や兵達の骸が、放り出されたように何十体も転がっていた。