黒い霧の中 3
黒い半球状の霧から距離をあけ、救護隊の十人は一所に集まっていた。
彼等は、各々が手に持った魔術ランプを、草原の中で異質さを放つ霧の中へ向けている。
全員の向ける光は一箇所に集まっていて、霧状の黒い面に眩いほどの一点を作り上げていた。
ここに救護隊が辿り着いた時、突然、疾風のように大柄の兵士が走り込んできた。
黒い霧の際まで走って止まり、救護隊の方を振り返る。
驚いた救護兵が何かを言う前に、その兵士におぶさった小柄な兵士が叫んだ。
「魔術ランプを点けて、一点に集中して当てて!」
兵士は黒い霧の表面を指差す。
「中の者は視界が利かない。光で脱出の道筋を示して!」
言われた内容に、皆がハッとする。
外から見てこの状態だ。
中にいる者からすれば、ろくに視界は利かないはずだ。
救護隊が、中から無事に出てくる者を待っていても、出口が分からなければ出て来ようがないのだ。
救護隊の面々が、救護バックと共に括り付けてある魔術ランプを急いで手にする。
彼等が次々と光を灯していくのを見て、小柄な兵士は頷く。
大柄の兵士が改めて霧の方へ向き直ると、その背から叫んだ。
「光量を最大にして光域を最小に絞って! 一点に集中!」
叫び終わる前に大柄の兵士が走り出し、その語尾と共に黒い霧の中に姿を消した。
「お、おいっ!」
慌てて救護兵が声を掛けたが、もう既にその姿は見えなくなっていた。
「さっきの奴、見覚えあったか?」
魔術ランプを手にしたまま、隣で同じ様にランプを構えている仲間に声を掛ける。
「それをさっきから考えているんだが、覚えがなくて……」
すると更にその横にいる仲間が、困惑したような顔で続ける。
「っていうかさ……さっきのって、砦の兵士だったか? いや、俺、なんかよく思い出せなくて」
彼は大きく首を傾げる。
「さっきの奴、どんな格好で、どんな顔だった?」
言われて兵達はそれぞれ目を見合わせる。
突然現れた兵らしき人物は、相当印象深かったはずなのに、一体どんな格好で、どんな顔をしていたのか、その髪色すら誰一人として自信を持って答えられなかった。
まるで幽霊でも見たような気分になって、思わずブルと身体を震わせる。
その時、黒い半球の光を当てた部分の側から、血まみれの兵が一人、倒れ込むようにして出て来た。
「脱出者だ! 急げ!」
救護隊の二人が急いで駆け寄る。
その後も、怪我をした兵が続けて二人出て来て、救護隊はにわかに慌ただしくなり、あの兵士が何者であったかの追求は、一先ず棚上げされたのだった。
魔獣の身体から、黒いモヤが盛上がる。
アッシュは、仄かに金の光を放つ長剣で、それを斬り捌く。
黒い半球状の霧の中に入って、中心の魔獣のいるここに来る間に、落ちていた剣を拾った。
間違いなく兵士の物だった長剣は、まだ神聖力の付与が消えていなかった。
何度目か分からないが、モヤの塊を斬ったアッシュが、後方のフラウレティアを肩越しにチラリと振り返った。
フラウレティアは、死んでいるのか生きているのか分からない、第二部隊長だと言っていた女兵の側にいる。
フラウレティアの手には、腰掛け鞄に入っていた、浄化石が握られている。
本来は、野営をする際に不浄が寄ってこないように置いておく、呪い石として使用するものだ。
結界とまで強く弾ける訳では無いが、太陽光を日中によく当てておけば、神の御力を避ける不浄には効果がある。
しかし、フラウレティアが握って魔力を保っているとはいえ、あの石がこの霧の中でどれ程の効果を保てるか分からない。
ここに長く留まれば、人間のフラウレティアには、不浄は害にしかならないはずだ。
「おい! 長くは居られないぞ!」
隠匿の魔術符を使っているので、念の為名前を呼ばずにアッシュはフラウレティアに叫んだ。
竜人族は毒や穢れにも強い。
今のところアッシュの身体に影響はないが、この場の気分の悪さは消しようがない。
フラウレティアのことも考えれば、そう長くここに留まるべきではない。
アッシュがフラウレティアを気にしている間にも、魔獣の表面からはボコボコとモヤが盛り上がる。
「キリがない」
アッシュはギチと牙を鳴らした。
「分かってる!」
フラウレティアは大声でアッシュに答えたが、内心はとても焦っていた。
魔獣の直ぐ側までくれば、精霊の声はもっと聞こえるはずだと思っていた。
確かにその予想通り、この場は頭が割れそうになる程、声に満ちている。
だがそれは精霊のものだけではない。
おそらく魔の森で命を落とした、フルデルデ王国の騎士や兵士達の声が混ざっている。
その声は、フラウレティアの胸を抉る。
なす術なく無慈悲に命を奪われたそれらの声は、厭悪と悲哀に満ちていた。
―――分かるよ。辛いよね、悲しいよね。
フラウレティアは周囲の声に同調する。
この胸を抉る気持ちは本物だ。
彼等の叫びと同調し、共鳴出来ると思った。
それなのに、いくらフラウレティアが呼び掛けても、囚われている精霊達は応えてくれなかった。
フラウレティアはアッシュが対峙している魔獣を見る。
少しも動かないその身体は、既に命を落としているのかもしれないし、この叫びの中に、魔獣の声も混ざっているのかもしれない。
それならば、耐え難いほど絶え間なく聞こえる叫びは、実は精霊のものではないのかもしれない。
共鳴出来ないのは、フラウレティアが“辛く悲しい”と思っているようには、精霊達がそう感じていないということなのだろうか。
このままでは、アッシュがもう駄目だと判断すれば、無理にでも連れ出されるだろう。
その前に、アッシュにだって危害が及ぶかもしれない。
それを考えて、初めてフラウレティアの身体に震えが走った。
「どうしよう……」
姿勢を低く保ったまま、フラウレティアは呟いた。
その時、地面についたフラウレティアの手に、何かが触れた。
力なく側に仰向けに転がっていた、ナリスの手だ。
「……フラウレティア……?」
極小さな声で呟かれた声には、ザラザラとした呼吸音が混ざる。
開かれた目は虚ろで、フラウレティアの方を向いていなかった。
もう、殆ど見えてはいないのだろう。
それどころか、もう既に様々な感覚が麻痺しているのかもしれない。
そのせいで、隠匿の魔術符の効果があっても、声と気配でフラウレティアだと判断し、ここに彼女がいることにも疑問を持たないのだ。
「ナリスさん……」
フラウレティアはナリスの手を握る。
彼女の命が尽きそうなことは、フラウレティアにも分かった。
「ギルティンは……行った?」
「はい。きっと、生きてここを出られます!」
辛うじて聞き取れる声で尋ねられ、フラウレティアは返事をした。
ナリスの虚ろな瞳から、涙が溢れた。
一度も、これからの約束なんてしたことはなかった。
それでも、毎日ギルティンと肩を並べていれば、不思議と互いの想いが分かっていた。
これからもずっと、そうやって隣に立っていたかった。
「……帰り……たい……」
あの頃に。
あの人の隣に。
―――帰りたい。
フラウレティアが握ったナリスの手から、彼女の気持ちがさざ波のように流れ込む。
「……かえ……り、た……」
ナリスの最後の言葉が、唇から小さく溢れた。
瞳から消えゆく光が、フラウレティアの胸を大きく揺さぶる。
連れて帰る。
あなたの心を、きっと、ここから砦へ連れて帰るから!
フラウレティアが声なく叫んだ時、周囲から響いていた厭悪の声が、ピタリと止んだ。




