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黒い霧の中 2

何度目か、魔獣の後ろ足を狙って斬り付けた長剣の刃が、ガチと嫌な音を立てて欠けた。

「固えんだよっっ!」

苛立ち紛れに叫んで、ギルティンは飛んできたモヤの塊を避ける。


手にした長剣は、まだ仄かに光を保つ。

刃は溢れても、神聖力の付与はまだ消えていないようだ。

付与は一刻半ほど保つと聞いているが、いつ消えるのかも、もう分からない。

この黒い霧の中にいると、時間の目安となる太陽の位置も分からない上、呻くような恨みの声が大きく小さく響いていて、感覚が何もかも麻痺してくるのだ。



ギルティンは長剣を構えたまま、目の前に変わらず佇む魔獣を睨む。

一人で立ち向かってみて、既にこの魔獣を倒せるとは思っていない。

無数の矢が突き立った身体は、ここに来てギルティンが向かって行っても、少しも動かないままだ。

正直、不浄にまみれたあの魔獣が、生きているのかすら分からない。

あの魔獣は異様すぎるのだ。


既に満身創痍の自分は、ここから生きて出られないだろう。

それならばせめて、生きているのか死んでいるのか分からなくても、確実に動けないよう足だけでも削いでやりたかった。

それが、この死地へ仲間の兵士達を連れて出た自分の、責任のような気がした。




黒い塵の中、息苦しくて一瞬喘ぎそうになったギルティンに向かって、左右から触手のようなモヤの塊が襲いかかる。

さっきまで一本だけを相手にしていたのに、急に二本に増えて、ギルティンの反応に一瞬躊躇いが混じった。

そのせいで、中途半端に踏み込んだ右足がズルリと滑って体勢を崩す。

右足の下はやけに泥濘んでいて、立て直すことができずにそのまま地面に伏した。



避けられない―――!


そう思って痛みを覚悟したのに、何の衝撃も来ない。


襲いかかられることがないことを訝しんで、ギルティンは恐る恐る視線を上に向ける。

無様に伏した自分の上には、不浄のモヤがうねっていた。

まるで獲物を見失ったかのように、ウロウロと魔獣の周囲を動き回る。

「…………何だ?」


「……アイツ、地を這う物は見えないみたいよ……」


突然耳に馴染んだ声が聞こえて、ギルティンは弾かれたように声のした方へ首を捻る。

そこで初めて、自分が伏した地面が仲間たちのものであろう血や臓物で泥濘んでいたのだと気付き、一瞬込み上げそうになった。

しかし、その泥濘の中に、戦いの中でもその安否がずっと頭の片隅にあった者を認め、大きく息を呑んだ。


「ナリス!」

ギルティンは反射的に起き上がりかけたが、すんでのところで上体を伏す。

頭二つ分上を、モヤの塊が勢いよく通り過ぎた。


小さく舌打ちしながら、ギルティンは伏したまま泥濘を避けずに這ってナリスに近付く。

最後の数歩分は叫びそうになるのを堪えて進み、彼女に縋り付いた。

「しっかりしろ!」


ナリスは力なく、仰向けに転がっていた。

その身は血と汗と草の汁にまみれ、千切れた草の端は至るところにへばりついている。

美しい鳶色の髪は乱れてもつれ、地面の泥濘を吸っていた。


そして、彼女の右脇腹には、あるべき肉がない。


汚れきった左手を震わせ、ギルティンはナリスの頬に触れる。

「…………死ぬな……頼む……」

彼女が既に命を失いかけている事が分かり、そんなことしか言えなかった。

周りには、仲間の兵士達の骸が転がる。

その惨状を目の前にして、ただ無力感と後悔が湧き上がる。


ディード団長は兵を出すことを取り止めようとしたのに、自分が覆した。

自分達の力を過信した。

この不浄にまみれた魔獣に、立ち向かってはならなかったのだ。


今の惨状の全てを自分が招いたような気がして、ギルティンはただ、目の前の女の頬で指を震わせた。


「…………あなたのせいじゃない……」

ポツリとナリスが呟いた。

その前後に、ザラザラとした耳障りな呼吸音が口の端から漏れる。

「あの時、あなたが言わなかったら……、私が言ってた……」

ナリスは柔らかく目を細める。

「あなたは……、立派よ」


砦の兵士として、国と民を守る為に最善を考えた。

相手の持つ力が未知数であっただけで、これが間違いであったと誰が言えるだろうか。




ナリスは泥濘みから手を上げて、自分の頬に添えられたギルティンの手を握る。

「逃げて……」

「っ……、俺だけ逃げるなんて、そんなこと出来るかっ!」

吐き出すように叫ばれて、ナリスはうるさいというように、一瞬軽く顔を顰めた。

「バカ、一人でじゃない……、まだ、生きてる仲間を……連れて帰るの……」

ナリスはもう一方の手で指差す。

その先には、ギルティンと共にここまで来た兵士が転がっている。

良く見れば、小さく唸って肩が僅かに動いた。

モヤに薙ぎ倒されて動かなくなったので、命を落としたかと思ったが、気を失っているだけで生きているようだ。

ナリスが言うように、地べたに転がっていたので不浄に気付かれていないのだ。


握ったナリスの手に、僅かに力が籠もる。

「助けられる命を、助ける。……上の者の、務めよ……」

ギルティンは強く歯を食いしばる。

嫌だとも、お前も一緒にとも言えない。

彼女はもう、ここから動かせるような状態ではない。

それでもギルティンは、動くことが出来ない。

「……俺は……っ……」

不甲斐なさに固まったままの彼の頬を、ナリスは不意に叩いた。

その力は、死を間近にした者にしてはとても強く、ギルティンはあまりのことに一瞬頭が真っ白になった。


「……甘えないで」

目線を戻せば、ナリスの鳶色の瞳に涙が盛り上がっている。

「最後まで……、私のっ……好きな男のままで、いてよ……!」


「…………クソッ……!」

ギルティンは泥濘みに落とした長剣の柄を強く握る。

血と汚れにまみれたナリスの顔に己の顔を寄せ、乱暴に口付ける。

そして頬に添えていた左手を離すと、這いつくばるような低い姿勢のまま、出来る限りの速さで生きている兵士の方へ向かう。


「アアーーッッ!」

胸が裂けそうな思いに、兵士服の胸を掴んで、心が発するまま叫んだ。




突然、突風のようにギルティンの側を何かが走り込んで来た。



千切れた草と泥が舞い、その勢いで黒い霧状になった塵を捲き上げる。

一時的に薄まった霧の中、何かが走り込んで来た方向から、一筋の光が差し込んだ。

薄闇に慣れた目に眩しく、ギルティンは目を眇める。


「その光の方へ行って!」

反射的に声がした方へ目を向けたギルティンは、眉根を寄せる。

魔獣の前に仁王立ちした大柄な兵士がいた。

その手には仄かに金の光を放つ、長剣が握られている。

一人かと思えば、その影からもう一人小柄な兵士が転がり出て来て、ナリスの側に伏せた。

すぐに触手のようなモヤが襲いかかるが、小柄な兵士が拳を向けると、サァと溶けるように掻き消えた。


「なんだ!?」

思わず口を開いたギルティンに向かって、小柄な兵士が叫んだ。

「光の方へ行けば出られる、早く行って!」

魔獣から再びモヤが盛り上がり、伸びようとする。

すると大柄な兵士が、草を刈るように難なくモヤを斬り捌いた。


ギルティンは逡巡し、一瞬ナリスを見た。

「早く!!」

小柄な兵士の叱咤に、ギルティンは動き出す。

歯を食いしばって、まだ意識の朦朧とする兵士を引き上げるようにして、低い体勢で走り出した。






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