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黒い霧の中 1

ディードは、見張り塔から草原を睨み付けるように見つめたまま、強く拳を握る。

さっき壁門から出た救護隊十名が、草原を一直線に馬で駆けて行く。


煙笛を打ち上げてすぐ、ディードは救護隊の出動を指示した。

彼等には、魔獣に向かっていった兵士達よりも、倍以上の距離を空けて停止するよう伝えた。

黒い霧の中に仲間の姿を見たとしても、決して近付かず、霧から脱出出来た者だけを速やかに救護するよう厳命する。

これ以上の犠牲は、一人たりとも増やしてはならない。




魔獣の足止めは失敗した。

いや、正確に言えば、あの場から動かなくなっているのだから、成功しているのかもしれない。

しかし、ある程度の被害を想定していたとはいえ、あの黒い半球から誰一人脱出出来ていない状況を見るに、兵士達を足止めに出したのは間違いであったと思わざるを得ない。


少なくとも、その命令を下した自分は、警備団の長としては迂闊だったと思った。

彼等の命を守ることも、自分の使命であるはずだったのに。



遠眼鏡を持ち上げ、小さくなっていく救護隊に視線を向ける。

せめて、彼等が無事にここへ戻って来ることを祈る。

暫くして、彼等が黒い霧の半球よりずっと手前で馬を止めた。


その時、悔恨と救命の祈りが混じるディードの視界を、何かが横切った。


「何だ?」

それは一瞬だったが、人の影のようにも見えた。

気のせいかと思ったが、救護隊の兵士達が、その影が走り抜けた方へ何かを叫んでいる。

側にいたアイゼルが、ディードの様子に気付いて同じ様に遠眼鏡を構えた。


ディードは急いで目を瞬いて、救護隊が向けている視線の先を探す。

大柄の兵士のような者が一人、いや、二人だろうか?

何かを手振りで示して叫ぶと、躊躇う様子なく黒い霧の中に飛び込んだ。


「あれは……、兵士……?」

アイゼルが困惑の滲む声で言う。

確かに兵士の格好のようにも見えたが、そうでないようにも思えた。

「どうやってあそこに……」

ディードもまた呟いて眉根を寄せる。

馬にも乗っていなかったあの者は、馬を駆っていた救護隊を追い越し、一体どうやってあそこに行ったのか。


「一体、誰だ……?」

遠眼鏡で覗く黒い霧には、もうあの人影は見えない。





「……っっがぁっ!」

鼻の上まで、顔に布を巻き付けたギルティンは、喉の奥から声が出るに任せ、右手の長剣を振った。


淡く金色に光を纏った刃は、勢いよく迫り来るモヤの先を、難なく斬り飛ばす。

モヤの断面と斬られた先が、パッと黒い塵を撒き散らすのを見て、塵を吸い込まぬように巻いた布の下で、ギリと音がはっきり聞こえるほどに歯軋りした。


ギルティン達の周りは、既に黒い霧のようなものに覆われ、視界は殆ど奪われていた。

自分の周辺の地面が、辛うじて分かる程度ではあるが、草原の緑は勿論、青空も白い雲も僅かにも見えない。

草原を渡る風すらも、この霧の中は通ることが出来ないのか、籠もった熱が身体に纏わりつく。


側には、右手首から先を喰われた兵士が、それでも必死で左手に剣を握って立っている。

少し離れた地面には、誰かの足が落ちているのが、視界の悪い中うっすら見えた。

「クソッ! バケモンが!」

ギルティンの口からは、砦を出てから一体何回目なのか分からない悪態が突いて出た。




砦から上がった煙笛に気付き、ギルティンはナリスと同様、即座に大声で撤退の指示を飛ばした。

しかし、それより一拍早く、不浄にまみれた魔獣は触手のようなモヤを撚り合わせて、より大きなモヤの塊で猛威を振るい始めた。


その一拍が、正に命取りだったのだ。


ギルティンとナリスの指示が耳に入ったと同時に、兵士が二人飲み込まれた。

初回の教訓を得て、兵士達は我を失うことなく、即座に反応したにも関わらず、彼等は誰一人として壁門に向かうことが出来なかった。

何故ならば、その時には既に、黒い塵は彼等の周辺にまで撒き散らされていたからだ。


馬首を返そうとした途端、活性化したような塵は、神聖力を付与されていなかった馬に影響を及ぼした。

馬達は気が触れたように従順さを失う。

宥めて駆けようとする者、振り落とされる者。

図らずも再びこの場は混乱を極めた。

それでも、襲いかかるモヤに武器で対抗していた結果が、今の状況だ。


襲いかかるモヤを避けるだけでは身動きが取れず、兵士達は当然武器を使った。

神聖力を付与された剣はモヤを難なく斬り、矢は突き抜けたが、その度に塵は撒かれた。

撒き散らされた塵は、段々と粒子を細かくし、その色を濃くする。

気付けば辺り一面が黒い霧のようなもので覆われ、視界は利かなくなっていた。

残された仲間がどれ程いるのかも分からず、連携など出来るはずもない。


ギルティンも隣の兵士も、正気でない馬に跨ったままではどうすることも出来ず、既に馬は捨てている。

「仲間はどれだけ生き残ってる!?」

言った先から、隣の兵士目掛けて斜め上からモヤの塊が降って来て、ギルティンは大きく踏み込んでそれを薙ぎ払う。

黒い塵がパッと散った。

「クソッ!」

塵を増やし、霧を濃くするだけだと理解していても、迫り来るモヤを斬り払う以外に術はなかった。




最初の弓での攻撃が本体の魔獣に効いていて、足止め出来ているのかどうか、その確認の為にも、とにかく、この黒い霧の中から脱出しなければならない。

ギルティンは、兵士と互いの背後を守りつつ、周囲を見回す。

目印になるようなものは何も見えず、方向感覚は完全に麻痺している。

ただ、モヤが向かってくる先に魔獣本体があるのだろうから、その反対に進むべきだ。


動きを確認し合い、襲ってくるモヤの塊を捌きつつ、二人は移動した。

一体どれ程の広さをこの霧が覆ってしまっているのか。

それが分からず焦る気持ちを抑え、二人はとにかくモヤが向かって来ない方へ、小走りに進む。



突如、霧が薄くなって、目の前に大きな影が現れた。


咄嗟に焦点が定まらない二人の前に、クマ型の魔獣が立っていた。

身体中に矢が突き立ち、動かない魔獣の周りを、寒気が背を這い登るようなおぞましい不浄が、ゾロリと纏わりついている。

「ひっ!」

兵士が小さく悲鳴を上げた。

途端に後ろから触手の様なモヤの塊が伸びて来て、ギルティンは寸前で避けたが、一緒にいた兵士は薙ぎ倒されて地面に転がる。


「コイツ、わざと後ろから……!」

モヤが伸びて来る方に本体があると思い、霧から出る為に反対に逃げていたはずだった。

だが実際は、逆から触手を伸ばし、本体の方へ追い込まれていたのだ。


本体の周りは霧が薄いのもあって、視界はそれ程悪くなかったが、気分の悪さは増した。

魔獣の周りには、同じ様に追い込まれたのであろう仲間の兵士達の骸が、幾つも転がっている。



「……ふざけやがってっ!」

ギルティンは強く歯軋りして、柄を握り直す。

本体の側まで来てしまったのなら、魔獣を倒すまでだ。


彼は迷いなく走り込むと、不浄の塊を纏う魔獣の身体を斬りつけた。







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