ある可能性
アッシュはドルゴールを飛び立って、ただひたすら、一直線にアンバーク砦を目指した。
何なら、日帰りででも帰るくらいのつもりだったのに、すっかり遅くなってしまった。
フラウレティアは人間達に囲まれて、嫌な思いをするようなことになっていないだろうか。
はやる気持ちを胸に燻らせ、アッシュは力強く翼を動かす。
荒野の上を低空で飛び、濃い緑色が重なって黒々と見える森に到達すると、高度を上げる。
途端に目前の景色が広がり、遠く森の切れ目の向こうに、長く横に続く塁壁が見えた。
その瞬間、砦の上空に細く煙が立った。
アッシュは僅かに目を眇める。
垂直に素早く上がったのを見るに、緊急を要する信号弾か何かだろう。
フラウレティアがいるはずの場所で、そんなものが上がったのを見て、アッシュは速度を精一杯上げて飛ぶ。
魔の森の上を切るように飛び抜け、平原に差し掛かって、あの信号の意味を察した。
砦の人間が、魔獣と戦っているのだ。
しかも不浄に酷くまみれている。
アッシュでさえも、思わずウッと息を詰めそうな気持ちの悪い汚れを撒き散らし、その一帯は不浄の支配下に置かれている。
戦っている兵は十数人というところだが、喰い散らかした跡のように、青々とした平原のそこここに馬や兵が倒れた痕跡が残っている。
既に何人も餌食になったのだろう。
触手のように伸びた不浄の塊が、上空の方へも伸ばされるのを見て、アッシュは更に高度を上げた。
関わり合うつもりはない。
人間の世のことは、人間がどうにかすればいい。
目指すのはフラウレティアの所だ。
アッシュは眼下の混迷した場を一瞥し、そのまま素通りするつもりで、大きく翼を羽ばたかせた。
「アッシュ!?」
フラウレティアは手すりを両手に掴んで、眉根を寄せた。
ドルゴールの方向から飛んでくるのは、間違いなくアッシュだ。
その進路沿いに、兵士達と魔獣の戦いの場がある。
それなのに、アッシュはそれを避けるかのように高度を上げた。
一直線にこちらに向かって飛ぶアッシュの影を見て、フラウレティアは下唇を噛んだ。
そうだ、竜人族は今まで人間に関わってこなかった。
人間の中に紛れて生活して、なんとなくそんな事を頭の隅に追いやっていたが、アッシュだって竜人族なのだから、積極的に人間の事情に関わるわけがないのだ。
それなのに、どうしてアッシュが戻って来たのを感じて、この状況がなんとかなるような気がしたのだろう。
フラウレティアは胸が苦しくて、無意識に手すりを強く握った。
上半身が手すりから少し乗り出すような恰好になって、側に立ったままだったエナは、咄嗟に再び彼女の腕を取った。
「おい! 危ない!」
フラウレティアはエナを振り返る。
彼女の辛そうな表情を見て、エナもまた顔を歪める。
「もう下りよう。ここで見ていても、俺達には何も出来ない。見てても辛いだけだろ」
点のように小さく見えるだけで、詳しい状況は分からないが、それでもあそこで命が失われていることが分かる。
何も出来ないのにここで見続けるのは辛い。
「何も出来ない……?」
「そうだ。戦う術のない俺達には、こんな時に出来ることなんてない。邪魔にならないように大人しくしておくだけだ」
エナはフラウレティアの腕を引く。
いつだって戦いが始まれば、兵士でないエナは黙って大人しくしている。
それが当たり前のことだ。
まさか本当にフラウレティアがここから飛び降りたりはしないだろうが、この娘は様々なことが自分と同じ感覚ではない。
このままここに放っておいては、初めて見る戦いに我を失い、変に騒ぎを起こすこともあるかもしれない。
エナはフラウレティアの腕を強く引き、階下に下りる階段の方へ連れて戻ろうとした。
しかし、その手は強く払われた。
驚いて振り返ったエナの顔を、フラウレティアは正面から見返した。
その表情には、一つの決意が見える。
「何も出来ないかどうか、やってみないと分からないわ」
「は? 何を言って……!」
エナの言葉を聞き終わる前に、フラウレティアは踵を返し、両手で手すりを掴むと、ヒラリと軽く飛び越した。
「なっ!」
エナの脳裏に、階段の踊り場の窓枠を、ヒラリと飛び越した彼女の後ろ姿が甦る。
しかし、この屋上はあの時よりもずっと高い。
「待てっ!」
エナは精一杯の速さで腕を伸ばす。
フラウレティアは手すりの外側に片足を付き、躊躇うことなく、力強く際を踏み切った。
エナの手は、またしてもフラウレティアの翻った肩布にすら届かず、宙を掴んだ。
落ちた!
そう思って血の気が下がったエナが、よろけるようにして手すりを掴んで、恐る恐る下を覗く。
しかし、エナの心配は的中しなかった。
フラウレティアの姿は、この本館と城壁の間に位置する、別館の屋上にあった。
以前見た時のように、一度くるりと前転するようにして、彼女は即座に走り出した。
別館はここよりも一階層分低いとはいえ、距離的に跳べる位置にない。
それを彼女は、助走もなしに跳び移ってしまったのか。
エナは壊れそうな程早く打つ鼓動を感じながら、あり得ない存在の少女から目が離せなかった。
〘 風の精霊! 追い風をちょうだい! 〙
フラウレティアは、別館の屋上を城壁に向かって走りながら、竜人語で叫んだ。
しかし、風の精霊からの反応はない。
軽く顔を顰めて、フラウレティアは走り続ける。
向かう先の城壁の方が、この別館の屋上よりもやや低いが、さすがのフラウレティアにも跳び移れない距離が空いている。
風の精霊の突風で後方下から掬って貰えたら、城壁の上に向かって跳べるかと思ったのだが、そう簡単にはいかないらしい。
精霊は世界を支える魔力。
彼等にどんな思いがあるのかは、精霊と心通わせるというニンフ族にしか分からない。
血の穢れを嫌い、多くの血が流れた時、嘆き悲しむと言われるが、精霊がバランスを崩した時の“音”が叫んでいるように聞こえるだけで、実際にそうなのかは竜人族にもエルフにもはっきりとは分からないらしい。
ましてや、精霊を正確に認識できない人間に、分かるはずもない。
そのはずなのだが。
フラウレティアには、時々精霊と通じ合えているような感覚を覚えることがある。
精霊の喜びや悲しみを感じるような気がするのだ。
その多くは、フラウレティア自身がそう感じている時に起こる。
魔の森で、フルデルデ王国の騎士達の骸を前に、悲しみを感じていた時がそうだ。
共鳴とも言えるその感覚は、過去にいくらアッシュに説明しても、理解しては貰えなかった。
ハルミアンですら、難しい顔をして聞いてくれただけで、『解る』とは言ってくれなかった。
だが、確かにそう感じる。
思い込みや願望ではない。
その瞬間は、自分の周りで魔力が高まる感覚がある。
精霊がフラウレティアに力を貸そうとしてくれる、そんな気がするのだ。
不浄に囚われた精霊達を助けたい。
フラウレティアはその思いで動き出した。
戦うことは出来なくても、囚われ苦しむ精霊を不浄の渦から助け出すことが出来ないだろうか。
それが今の状況を打破し、戦いに出ている人間達を助けることにも繋がるはずだ。
その為に、精霊達と感覚を繋げて呼び掛けたい。
〘 精霊達、お願い! 仲間を助けるのよ! 〙
フラウレティアは再び叫んだ。
〘 フラウ! 〙
突然、上空から突進してきたアッシュが、屋上の際まで後少しだったフラウレティアの両肩を掴んで引き倒した。




