共鳴する心 2
フラウレティアが遠眼鏡を下ろすと同時に、城壁側から出てきた、小さな点の集団が視界に入った。
魔獣討伐の為に、この砦から出た兵士達だ。
フラウレティアは、再び遠眼鏡を右目に充てがう。
集団の先頭に、硬皮の胸鎧を身に着けたギルティンがいる。
その後ろに、同じ様な胸鎧を付けたナリスが続き、更に後ろに似たような装備の十数人が追う。
彼等は、魔獣と随分距離を空けて馬を止めた。
前回、触手のように黒いモヤを伸ばされたからだろう。
馬を止めると、彼等の身体や手にしている武器に、淡く金の光が見えた。
太陽神の御力だ。
彼等は皆、太陽神の神官に神聖力の加護を与えて貰っているのだ。
ギルティンが何やら指示を出しながら手を振ると、後ろの兵達は、三方に分かれて馬を動かす。
移動し終わったと思うと、一拍おいて、数人の兵が弓を構えて矢をつがえた。
声が聞こえないので定かではないが、おそらく号令と共に三方から放たれた矢は、殆ど同じタイミングで魔獣の身体に突き立った。
クマのような魔獣は、一瞬身体を大きく震わせる。
―――効いているんだ。
フラウレティアは目を素早く瞬いた。
不浄にまみれた魔獣とは、やはり神聖力の加護があれば戦えるのだ。
そう思った時、魔獣の身体から一斉にモヤが伸びた。
ぐねぐねと捩れるように伸びた数多くのモヤは、距離を空けている兵達には届かない。
それを確認したからか、待機していた兵士達も、馬に括り付けてあった弓を持ち出して同様に構えた。
伸びる黒いモヤが、狂ったように捻れ舞う。
それが自分達の待機する場所まで届かないのだと見るや、ギルティンは声を張り上げた。
「このまま遠距離でダメージを蓄積しろ!」
兵士達は、馬の背に留めてあった弓を急ぎ手にすると、次々に矢を放つ。
神聖力の加護を得た矢は、伸びたモヤも突き通り、魔獣本体に次々と刺さった。
のろのろと進んでいる魔獣は、その歩みをゆっくりと止める。
それに反して、伸びた黒いモヤは苦しんでいるかのように動きを増した。
「いける!」
確実に効いていると分かり、兵士達の意気が上がる。
魔獣を追い立てるように、兵士達は更に矢を引く腕に力を込めた。
幾本もの矢が暴れ狂うモヤを次々と突き通る。
その度に、黒い塵のようなものが散った。
三方から休まず矢が放たれる。
モヤから散らされる塵で、魔獣の周辺は徐々に薄暗い霧が掛かり始めていた。
砦の見張り台から、討伐隊の様子を遠眼鏡で見ていたディードは、強く眉根を寄せる。
遠眼鏡で見ている魔獣が、徐々に霧のようなもので姿を映し難くなっている。
「不味いな……。アイゼル、一旦後退の合図を出せ!」
ディードは、側に控えるアイゼルに指示を出した。
視界を遮られては、何においても対応に遅れが出る。
得体の知れない相手には、慎重に向かわねばならない。
僅かでも異常を感じれば、躊躇わず撤退するようギルティン達には言い渡してあった。
砦から、ピウッと高く音を立てて、煙笛が高く飛んだ。
城壁の上空に伸びた黄色の煙を見て、ナリスが叫ぶ。
「散開して後退しろ!」
急げ、と続けようとしたナリスのすぐ右横を、黒い影が走った。
弾かれたように右を向いたナリスは、少し間を空けて隣にいた兵士の上半身が、高速で伸びてきた黒いモヤに馬の首ごと抉られたのを見た。
息を呑んだナリスに、兵士を喰らったモヤが反転して襲い掛かる。
「くっ!」
咄嗟にナリスは抜剣して、その勢いのまま、迫るモヤを薙ぎ払った。
神聖力の加護を得ている刃は、黒いモヤを難なく斬った。
斬られたモヤから、パッと黒い塵が撒き散る。
眇めたナリスの目に、モヤの断面が映った。
そこには、多くの人の影が見えた。
フルデルデ王国の国章を付けた騎士達の姿を捉え、ナリスは僅かに身体を強張らせる。
討伐隊の面々は、砦を出発する前にアイゼルから、腕を亡くした兵が見聞きしたという、この不浄のモヤについて注意を受けた。
幻覚なのか、それとも本当に不慮の死を迎えた彼等の残留思念なのか分からない。
しかし、それらは同じ国の兵士として、目にして耳にすれば心を乱される。
十分に心しておくようにと聞かされ、ナリスも心構えはしていたはずだった。
しかし違う。
これは、そんな生半可なものではない。
その断面から溢れ出るような厭悪と悲哀に、ナリスは飲まれる。
その瞬間、薄暗い霧の中から別のモヤが一本が伸び出て、ナリスに喰らいついた。
フラウレティアは遠眼鏡を下ろし、片手で手すりを強く握った。
遠く、黒い点のように見えていた魔獣は、周囲を薄暗い霧のようなもので覆われ、その姿はもう隠されている。
「駄目、あれじゃあ……」
キツく眉根を寄せて呟いた時、城壁の上から耳をつんざくような高い音と共に、細く黄色い煙が上がる。
討伐隊への何かしらの合図だろう。
しかし、それは間に合わなかった。
魔獣の身体から数多く伸ばされていた黒いモヤは、四本に纏められて、一気にその長さを伸ばした。
届かないと思っていた距離を一瞬で詰められて、前回同様、兵士は馬首を返す間もなく二人が喰われる。
フラウレティアの手すりを掴む手に、更に力が入る。
三方に散らばっていた兵士達は、自分達の放った矢によって、いつの間にか不浄を広げてしまったことに気付いただろうか。
フラウレティアは遠眼鏡を下ろしたまま、両目を眇めた。
草原から、熱風が吹き上げて、彼女の髪を舞い散らす。
あの不浄が撒き散らす異常な叫びが、こんなに遠くにいて届くはずがないのに、フラウレティアの耳には、まるでここで叫んでいるように聞こえた。
ただし、それは、人間のものではない。
「苦しんでる……」
フラウレティアの耳に届くのは、精霊達の嘆きの声だ。
人間の身勝手で世界を汚された、その苦しみ、悲しみ。
フラウレティアが、魔獣が出現する魔穴に巻き込まれたあの時、精霊達もまた、人間の作り出した不浄と共に巻き込まれた。
竜人の強大な魔力で弾かれて、フラウレティアは魔穴からアンバーク砦の側まで飛ばされたが、精霊達は今も不浄に囚われたままなのだ。
討伐隊の兵士が、また一人モヤに喰われた。
精霊達の嘆きが風に乗って、更にフラウレティアの胸を突く。
胸の内から、遣り切れない悲しみが湧き上がり、精霊達の声に共鳴する。
フラウレティアは堪らず、手すりを掴んだまま身を乗り出した。
精霊達は、助け手を求めている。
行かなければ。
急き立てられるような気持ちで、居ても立っても居られず、フラウレティアは更に身を乗り出した。
裾を絞った幅広のズボンをはためかせ、片足を手すりにかけようとした。
「おい! 何やってんだ!」
突然二の腕を強く掴まれ、後方に引かれたフラウレティアはバランスを崩した。
そのまま腕を引いた者の胸に、全体重を掛けた状態で受け止められる。
慌ててその胸を押し、身を起こして顔を上げた。
腕を引いたのはエナだった。
見上げたフラウレティアと目を合わせたエナは、糸のように細い目を精一杯見開いて息を呑んだ。
自分を見上げる少女の瞳は、鮮やかな深紅だった。