共鳴する心 1
医務室で、フラウレティアが落ち着かない様子で窓の外を見る。
何度目かのその仕草に気付き、エイムが苦笑して尋ねた。
「フラウレティアさん、心配ですか?」
「え?」
「いえ、随分外を気にしているようだから」
指摘されて、薬瓶を片付けていた手が止まっていたことにも気付き、フラウレティアはすみませんと一言言って、急いで作業を再開する。
「大丈夫ですよ、ここの皆さんは魔獣との戦いに慣れています。不浄を纏った魔獣だったので、さっきは怪我人も出ましたが、神官も来ましたし、仕切り直して討伐に出向くはずです」
実際は魔獣に二人喰われているのだから、それ程軽く考えられるものではない。
けれども、未成人のフラウレティアを慮ってか、エイムの言葉に深刻さは余り感じない。
「そうですね……」
しかし、返事をするフラウレティアはどこか上の空だった。
フラウレティアが考えているのは、エイムの言うように討伐に出る兵士達の心配ではない。
もちろん心配ではあるが、それ以上に気になっているのは、腕を失くした兵の言っていた、不浄のことだ。
彼が不浄の中に見たというのは、このアンバーク砦を通って魔の森へ入ったという、フルデルデ王国の騎士達だ。
「……エイムさん、ちょっと様子を見てきてもいいですか?」
フラウレティアは、途中だった作業を手早く終えて尋ねた。
「え? 様子を見るって……、フラウレティアさん! 城壁付近は立入禁止ですよ!?」
返事を待つまでもなく、踵を返して医務室の出入り口に向かうフラウレティアに、エイムは立ち上がって声を上げる。
「分かってます、城壁には近寄りませんから!」
言うが早いか、フラウレティアは垂らされた布を払うようにして医務室を出て行った。
残されたエイムは、ただ呆然と目を瞬く。
「城壁に近寄らずに、何処から見るつもりなんだ……?」
フラウレティアは医務室を出て、本館に向かって走った。
建物に入り、普段よりも人気のない廊下を進んで階段へ向かう。
食堂の入口近くを通る時、暖かな煮炊きの香りと、焼き立て香ばしいパンの香りが混ざって、鼻先をくすぐる。
どんな時でも、いや、非常時こそ、食べられる隙間に腹を満たすことは重要だ。
その為に、きっと今も厨房は忙しく食事を用意しているのだろう。
マーサの顔を見に行きたくなる微かな気持ちを押し込み、フラウレティアは階段に辿り着くと駆け上がった。
四階建ての建物を上がりきって、屋上へ出る。
何度も来たことのある屋上は、今は誰もいない。
フラウレティアは、演習場を見下ろす方とは反対側、城壁の方側へ向かう。
この前の夜にギルティンと話した場所まで行くと、この建物よりも低い城壁の向こうに、緑の波のように草を揺らす平原が見えた。
その更に向こうには、黒々として見えるほど濃い緑の木々が、地平を塗り潰すように広がっている。
フラウレティアには馴染み深い、魔の森だ。
手すりの側まで行くと、平原に黒い点が見えた。
他に何もないところを見ると、あれがおそらく魔獣なのだろう。
フラウレティアは腰掛け鞄の中から、小指程の大きさの小さな筒を出した。
ハルミアンと一緒に手を加えた魔術具で、極小の遠眼鏡だ。
その濃銅に鈍く輝く筒を指先でひと撫ですると、右目に端を充てがう。
練り込まれた魔石に魔力充填されて、普通の遠眼鏡よりもずっと遠くまではっきりと見えた。
緩く後ろで一つ括りにした銅色の髪を、汗ばむような熱風が散らしていく。
フラウレティアはゴクリと喉を鳴らした。
遠眼鏡ではっきりと見えた魔獣を、フラウレティアは見たことがある。
いや、正確に言えば、あそこまで不浄にまみれる前の魔獣を見た。
アンバーク砦に飛ばされてきた日、フラウレティアとアッシュは、魔の森で屍となった多くの騎士達を見つけた。
彼等は、フルデルデ王国からドルゴールに向けて送り込まれた集団だったが、魔獣の群れと遭遇して戦闘になったようだった。
フラウレティアとアッシュが探索したところ、その近辺に生存者はなく、相打ちであったのか、数体の魔獣の死体も転がってる。
しかし、今しがたの戦闘の跡ではなく、随分時間は経っているようだった。
出来るだけ急いで死体を焼かねばならない。
魔の森は元々精霊が不安定で、これではいつ魔穴が発生してもおかしくない。
「まったく、凝りもせずこんなに送り込みやがって」
人形に変態したアッシュは、不満気に鼻を鳴らした。
フルデルデ王国からこういった集団が魔の森に入って来るのは、何度目だろうか。
彼等の目的地はドルゴールのようだが、結局魔の森を抜けられず、一人残らず森の中で命を落としている。
そして、その度に竜人達が焼きに来ているのだ。
「いい迷惑だぜ」
アッシュは手近に倒れていた一人に魔法の炎を落とす。
周りを見渡し、その屍を一人で全て焼くには相当苦労しそうで、腹立たしさに荒く息を吐く。
アッシュは正直、魔法が得意ではないのだ。
一度ドルゴールに戻って応援を頼むべきかと考え、フラウレティアの方へ向く。
しかし、彼女は側におらず、少し離れた所の大木に、凭れて命尽きた騎士の側に座り込んでいた。
「フラウ?」
アッシュが近寄ると、フラウレティアはしゃがんだまま顔を上げて、騎士の手を指差した。
騎士の指先には、命を失う直前まで握っていたのであろう、小さな木彫りの花がある。
「お守りなのかな……」
フラウレティアは呟く。
木彫りには細い紐が付いていて、それが騎士の指先に引っ掛かって、儚く揺れていた。
その花は、アーブの花だ。
傷口を覆う為に、大きな葉が治療時に良く使われる。
薬効のある植物図鑑で、フラウレティアはその木に咲く花も見たことがあった。
アーブは生命力が強く、自生していつの間にか株が増えることから、一般的に家庭でもちょっとした怪我の手当に使われる。
どこの人々にも馴染み深く、その生命力の強さから、健康や長寿を願う意匠でよく使われると聞いた。
「…………どうして、こんな所で死ななきゃならないのかな」
ポツリとフラウレティアは呟く。
お守りを持っていたということは、誰かが彼の無事を願っているということだろう。
「……さあな」
―――人間の考えることなんて分からない。
そう続けそうになった口を、アッシュは辛うじて閉じる。
目の前で項垂れている少女は、紛れもなく人間だ。
「こんなにたくさんの人……皆、こんな所で死にたくなかったよね……」
フラウレティアは揺れる木彫りの花を見つめる。
自分の母もおそらくフルデルデ国民で、紛争から逃げる途中で魔穴に巻き込まれ、この森で倒れて息絶えたのだろうと聞いている。
詳しいことは知りようもないが、きっとこんな寂しい場所で死にたくはなかっただろう。
魔術素質が僅かにあるフラウレティアには、この周辺で嘆き悲しむ精霊達の光が、薄く見えた。
人間は何をしたいのだろう。
生きていれば、他人が想像も出来ないような大事もあるのかも知れないが、無意味に大勢死なねばならないようなことが、それ程あるものだろうか。
フラウレティアはどうしようもなく悲しかった。
目の前で揺れるお守りから目が離せず、胸の前で拳を握る。
胸の内から込み上げる悲しみに、精霊達が共鳴するように輝きを増した。
掛ける言葉が見つからなくて、立ち尽くしていたアッシュが、異様な魔力の動きに気付いて振り返った。
細く耳鳴りのような音がして、重なり合った死体の上に、濁った魔力が急速に集まり始めている。
「フラウ、魔穴だ! 逃げるぞ!」
アッシュは素早くフラウレティアの腕を引いた。
歪に集まった魔力の中から、湧き出るように大きなクマのような魔獣が顔を覗かせる。
同時に、濁った魔力が魔獣の方へ吸い寄せられながら、周りのものを全て攫って飲み込んでいく。
転がっていた騎士達の身体は、ぐにゃりとおかしな曲がり方で、次々に魔穴の渦に吸い込まれた。
流れに抗って、集まる魔力の渦から脱出しようとしたフラウレティアは、木の幹に座っていた騎士の身体が渦に向かって引かれたと同時に、その身体が足にぶつかってバランスを崩した。
「フラウ!」
よろけたフラウレティアの身体を、アッシュは咄嗟に抱き止める。
二人はそのまま、騎士の身体ごと魔穴に飲み込まれたのだった。




