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尋常でない事態

アンバーク砦の医務室は、騒然としていた。

魔獣に腕を喰われた兵士を始め、大怪我を負った兵士が数名運び込まれているのだ。

本来なら奥の調剤室を手伝う、調剤師や調剤見習いも奥の部屋から出て来て、処置を手伝っていた。


フラウレティアは医務室の外で、大きなシートを広げた上に座った、軽症の兵士の手当をしていた。

専門的な知識や技術はないので、中を手伝っては返って邪魔になる。

しかし、魔の森に狩りに出て大体のことを一人でやってきたフラウレティアは、軽い怪我の処置なら出来る。

そこで、外でのことは任せてもらった。



「最近は、魔獣なんて少しも姿を現さなかったのに……」

兵士の足の傷を消毒して、包帯を巻いていたフラウレティアの耳に、別の兵士の固い呟きが届いた。

フラウレティアは手を止めずに、軽く唇を噛んだ。


フラウレティアが、この砦に来て、もうすぐ一ヶ月経つが、警鐘が鳴らされたのを聞いたのは今日が初めてだ。

城壁の近くまで来る来ないは別として、魔獣が魔の森から完全に姿を現した時に鳴らされる警鐘は、少なくとも月に二、三回は聞くのが常であったという。

それが鳴らされることがなかったのは、おそらくアッシュがいたからだ。

余程気性が荒い魔獣や、均衡を崩した精霊に感化された魔獣でない限り、理由なく竜人族に向かってくる魔獣はいない。

アッシュがフラウレティアと共に砦に留まっていたことで、この砦に近寄る魔獣がいなかったのだ。

アッシュがドルゴールに帰っている今、暫く現れていなかった魔獣の出現は、不思議なことではなかった。

―――ただ、問題はそこではない。


「……なんだって、あんな魔獣が……」

兵士が震えるように呟いた。


久しぶりに魔の森から姿を現した魔獣は、これまで誰も見たことのない、異様な姿だったのだ。





城壁上部に突き出た見張り塔の小部屋から、ディードが遠眼鏡で壁外を見ている。

遠眼鏡で見る先には、魔の森と城壁の間に広がる平原を歩く、巨大なクマのような真っ黒の魔獣がいる。

その姿は、遠目で見れば黒いだけだが、よく見れば、表面を黒いモヤのようなものが厚く覆っているのが分かった。


遠眼鏡で拡大して見ているディードは、思わず眉根を強く寄せる。

その黒いモヤは、まるで生き物のように魔獣の表皮上をぞろりと動いていて、時折盛り上がって弾けては、禍々しい塵のようなものを撒き散らせている。

その光景はなぜか寒気を誘い、見ているだけであるのに、ディードの腕は粟立った。


あれは、どう見ても不浄のものだ。

多く血が流れ、怨念が沁み渡った穢れた場所や、理不尽で無念な死を迎えた者が淀んだ気を取り込んで起こる変化だ。

だが、魔獣が不浄のものになるなど、見たことも聞いたこともなかった。


「……どうやら速度を上げることは出来ないようだな」

ディードは呟く。

魔獣の歩く速度は、人が足を引きずってようやく歩いているような遅さで、今ちょうど森と壁の間の中央辺りを進んでいる。

しかし、魔の森を出てから迷いなく、真っ直ぐに壁門を目指して進んでいるのだった。




今朝、この魔獣が魔の森から姿を現したのを見張りが発見し、すぐに警鐘が鳴らされた。

魔獣によっては姿を現しても、森の縁でうろついて、再び森に戻るようなこともある。

そのような場合には討伐隊は出ないが、今回の魔獣は、のろのろと、だが真っ直ぐに砦の方へ進み始めた。

そこで様子見に、砦から兵士が十人出された。

人間を見れば、速度を早めて襲ってくるかもしれない。

十人の内、斥候役の三人は、魔獣に寄り過ぎないよう気を付けながら距離を縮めた。

表面の異様な黒いモヤに、兵士達が顔を歪めた時だった。


それは突然だった。


魔獣ののろのろとした歩みは全く変わらなかったのに、黒いモヤが無秩序に素早く伸びた。

伸びた先はパカリと開き、おびただしい塵を吐きながら馬ごと一人の兵士を喰ったのだ。


あまりにも唐突に起こった出来事に、近くにいた兵士は勿論、離れていた兵士達も、城壁から見守っていた者達も皆一瞬凍った。

そして次の瞬間に恐慌状態になった。

「戻れっ!」「逃げろっ!」

離れた場所にいる兵士から、残る斥候の二人に声が飛ぶ。

二人の斥候は急いで馬首を返そうとしたが、吐かれた塵に触れた馬が一頭、泡を吹いて暴れ、兵士は馬上から投げ出された。

投げ出された兵士は、立ち上がることも出来ないまま、伸びてきたモヤの中に飲まれる。

一人残された斥候は、頭上から落ちるように迫るモヤを、馬首を捻るようにして辛うじて避けたが完全には避けきれず、左腕の肘から手首までをバグンと噛まれて失った。




「ディード様、もう四半刻もすれば、神官が二人到着するそうです」

見張り塔の小部屋に入って来た、副官のアイゼルが言った。

「聖騎士は?」

「現在はアンバーク領内に駐在していないそうです」

「そうか……」

遠眼鏡を下ろしたディードは、苦い表情で口を閉じる。

不浄のものに対抗出来るのは、神聖力を持つ聖職者だけだ。

しかし、神官や司祭は不浄自体を祓うことが出来ても、物理的に戦う術は持たない。

こちらに襲いかかってくるような、生きる屍が相手では対応出来ない。

そういうものを相手にするのは、基本的に聖騎士だ。

平常であれば、高位聖職者の護衛騎士としての役割を持つ聖騎士は、戦うことが出来、尚且つ不浄のものに対抗出来る聖職者だ。


ディードは再び、遠くでのろのろと動いている黒い魔獣を見遣る。

聖騎士がいない以上、この地を守る砦の兵士が、神聖魔法の付与を頂いて戦わねばならない。

しかし、先程の魔獣の動きを見るに、剣でまともに相手に出来るだろうか。

出来たとしても、相当の犠牲を払う覚悟が必要になるだろう。


「……あれの目的は何だ」

ディードは深い海色の目を眇める。

あの魔獣が、真っ直ぐこちらに向かってくる目的は何だろうか。

それが分かれば、別の対処が出来るかもしれないのだが。





演習場に併設されている装備庫で、兵士達が魔獣と戦う為の装備を整えている。


「予感が当たっちまったじゃねぇか」

忌々しく吐き出すギルティンを、半ば呆れたように横目で見たナリスは、胸鎧のベルトを引き締める。

「だから、何でもフラウレティアのせいにするのはやめなさいって」

「してねえ!……ただ嫌な予感が当たったって言ってるんだ」


ギルティンは強く顔を歪める。

この砦に居着いて六年余り、いや、それ以前に傭兵であった頃を合わせても、あんな訳のわからない魔獣を見たことはなかった。

明らかに、異常な何かが起こっている。


「まあ、ブツブツ言いたくなる気持ちも分かるけどね」

溜め息混じりに吐かれたナリスの声に顔を向ければ、髪を後頭で纏め上げたナリスが、装備を整え終えてこちらを見ている。

「でも今は、とにかくあの化け物(魔獣)を何とかしないと、でしょう?」

「…………そうだな」

ギルティンは表情を引き締める。


「隊長! 神官が到着したそうです」

兵士の声に、二人は装備庫の開け放たれた出入り口に向かって足を踏み出した。





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