意味のあること
「『エニッサに見つかったらやり直し』って言ってあるのに、どうしてハドシュに見つかったからって戻って来るのかな」
やり直しスタートを切ったアッシュの後ろ姿を眺め、開け放った窓際に座った老エルフ、ハルミアンは頬杖をついた。
腰より下まで伸びた、くすんだ金髪を一本に編み、その毛先を指で揺らして遊ぶ。
長く伸びた腕も、緩めたシャツから見える首元も、肉が薄く、筋張っている。
しかし、歳を重ねても白い肌は透けるような美しい色合いで、シワが寄って痩せた顔にも、美しさが残っている。
「格上にはすぐバレるって、分かってないのかね?」
「さあな」
窓の側の外壁に凭れて、同じようにアッシュの後ろ姿を眺めるハドシュは、興味なさそうに答えた。
しかし、その目線が息子の後ろ姿から離れないあたり、全く興味がないわけではなさそうだ。
「まあ、いいや。とにかく一周するまでは意地でもやめなさそうだし、頑張らせておこうっと」
軽く笑って言った口調は、若い頃と変わらず、常に何処か楽しそうだった。
ハルミアンは側の机から、魔術符を作る為の特殊紙を取り出し、数枚並べた。
小さな魔石の付いた魔術具のペンで、紙に細かな魔術式を描き始める。
ハドシュは窓際からそれを見下ろして、小さく眉を動かした。
「まさか、それをアッシュに持たせるつもりか?」
「そうだよ。アッシュがどんなに頑張ったって、隠匿の魔法を一日中、それも何日も続けて使うなんて無理でしょ」
ハルミアンはあっさりと言い放って、複雑な式を淀みなく描いていく。
それは、隠匿の魔法を模した魔術符だ。
そもそも人間の使う魔術と、竜人やエルフが使う魔法は、似て非なるものだ。
人間に魔法は使えないし、竜人やエルフは魔法を使えるので、敢えて魔術を使おうと努力したりはしない。
しかし、ハルミアンは人間の使う魔術や魔術具に興味を持ち、若い頃から人間の魔術士と協力して、魔術符に魔法に似た効果を持たせた物を幾つも作っていた。
魔術は魔法に劣る法術だと考えがちなエルフが多い中、ハルミアンは、魔術には魔法にはない素晴らしさがあると公言する。
ハルミアンが“変わり者のエルフ”と呼ばれる理由の一つはそれだろう。
ハドシュは長く息を吐いた。
「そう思ってその魔術符を持たせるのなら、こんな特訓は必要ないのではないか?」
ハドシュの言葉に、ハルミアンはペンを一度止めて、軽く睨んだ。
「あのねぇ、魔術符頼みにしていて、もしも符が破損したらどうするのさ。不測の事態に対応する為の習得特訓でしょ。こうでもしておかなきゃ、絶対対応できないよ?」
竜人やエルフの基準からすれば、アッシュは魔法に不得手なのだ。
「…………そうまでして、アッシュを人間の世界に連れ出すのは何故だ。お前は何を企んでいる?」
ハドシュが雰囲気を変えて、固い口調で言った。
フルブレスカ魔法王国の存在した時代、ハドシュは竜人族の頂点であった“始祖七人”の忠実な下僕であり、有事の際にはその力を以て人間を服従に導く執行人であった。
その頃の雰囲気を滲ませるハドシュに、ハルミアンはくすりと小さく笑う。
「企むなんて、人聞きが悪いなぁ。僕はそういうのは苦手だよ」
表情は変わらないくせに、ハドシュが胡散臭いものを見るような視線を向けてくるので、ハルミアンは魔術式を描いていた手を休め、魔術具のペンを上に向けた。
「企んだりしなくても、事は既に起きているのかもしれないよ?」
「事?」
ハルミアンは軽く頷く。
「あの竜人族が、人間の赤ん坊なんかを拾い、育てる。その子が独り立ちする頃に、偶然にも人間の世界に交わる。そんな有り得ないような事が、既に起きているんだよ。全く意味のないことだと思う?」
ハドシュは、下らないというように溜め息を付いて、壁に凭れていた背を離す。
「……人間やエルフは、すぐに事象に意味を付けたがる。その理屈で言えば、意味のない事など、世界にはないように思えるが」
「その通りだと思うよ」
ハルミアンが可笑しそうに笑った。
「意味のない事なんてない。きっと、世界で起こる事は全て、誰かにとっては意味のあることなんだ。……君が随分丸くなったのもね」
訳が分からぬ、と忌々し気に吐き捨てて、ハドシュはアッシュが歩いて行った方を見る。
そこにはもう、息子の後ろ姿はない。
翌朝、フラウレティアは果物のシロップ漬けを持って、グレーンを見舞った。
今日一日はベッドで静かにしていろと言い渡されて、グレーンは不機嫌そうにベッドに転がっていた。
「毎日忙しくて、休ませてくれと思っておったが、じっと寝転がっていると、それはそれで退屈で堪らんわい」
グレーンがモサモサと髭を揺らして、口を尖らせる。
フラウレティアが来て話し相手が出来たので、少しだけ機嫌を直したようにも見える。
「後で本でも持って来ましょうか?」
「それも目が疲れるわい。包帯でも作るから、布を持って来てくれんかの」
「それ、結局お仕事なんじゃないですか?」
くすくすとフラウレティアが笑うと、グレーンも目尻を下げた。
「ミルクジャム、昨日焦がしちゃったんです。変わりに……」
フラウレティアは、シロップ漬けの器にスプーンを付けて差し出す。
厨房に入りづらくなってしまったので、薬剤室の小型の炉で、シロップだけ作らせてもらったのだ。
グレーンは二匙程食べて、器を側の机の上に置いた。
「今は腹が減っておらぬでな。後でまた頂くよ」
そうは言うが、器を置いた横には、手を付けられていない朝食の盆が置かれたままだった。
やはり食が進まないようだ。
こうなると、ミルクジャムを焦がしてしまったことが恨めしい。
あんなに美味しそうに食べてくれていたのに。
今夜、何とかもう一度だけ作らせて貰えないか、マーサに聞いてみようと思った。
そろそろ医務室の手伝いに行こうと、フラウレティアは立ち上がる。
そして、少しだけ考えてから、口を開いた。
「グレーン薬師様、アッシュが戻って来たら、……私とアッシュのこと、少しお話してもいいですか?」
『 人間と手を取り合い、再び共存することは出来ないだろうか。失われた知恵を共有し得るような関係を、新たに築くようなことにはならないだろうか 』
グレーンはこの前そう言った。
あの時は突然の事で、何も話すことが出来なかった。
しかし、グレーンになら、フラウレティアの事情や気持ちを話しても良いような気がしていた。
いや、アッシュは竜人で、竜人族は決して人間の敵ではないということを、グレーンには知って欲しかった。
僅かに緊張の滲む表情で見つめるフラウレティアに、グレーンは微笑んで、優しく何度も頷いて見せた。
「何でも聞かせておくれ」
笑顔で返すグレーンを見て、フラウレティアはほっと頬を緩めた。
「フラウレティアよ」
部屋の扉を出ようとしたフラウレティアに、グレーンが声を掛けた。
フラウレティアはくるりと振り返る。
グレーンはベッドの上で、上半身をしっかりと起こし、背筋をピンと伸ばしてこちらを向いていた。
「お前さんは良い子じゃ。迷っても立ち止まっても、その心のまま、信じる道を真っ直ぐに生きなさい」
突然の言葉に目を瞬くフラウレティアを見て、グレーンはゆっくりと目を細めて笑った。




