心細い夜
日の入りの時刻を過ぎて一刻半が経とうかという頃、ディードの執務室には、珍しく厨房責任者のマーサが来ていた。
「では、今回が初めてではなかったということか」
ディードの言葉に、マーサは普段のおおらかな笑みを失くして、難しい表情で頷いた。
「随分前の事ですけどね」
厨房で下女がフラウレティアの私物を盗もうとした件は、すぐにマーサとディードの耳に入った。
エナと下女が険しい雰囲気で揉めたのを、料理人や兵士達が何人も目撃したからだ。
最終的には、仕事終わりで食堂のあちこちに屯していた兵士達が、皆集まってしまったので、大勢が知ることとなってしまった。
マーサがここに来て話したことによれば、下女は過去に厨房の食材を、こっそり持ち出した事があるらしい。
料理人が、食材の在庫が合わない事に気付いて判明した。
その時は、二度としないことを約束させて、厨房内で内々に収めた。
「あの時に報告を上げなかったことは、申し訳ないと思っています。でも、あれからあの娘は、真面目に働いてきたんですよ。なんでまたこんなこと……」
マーサが悔しさを滲ませるように唇を引き結んだ。
「とにかく、謝罪はさせました。ああも騒ぎになっては、厨房を辞めさせることも考えたんですが、あの娘も何せ家族の為に働いてますから……」
下女の家族には病人がいて、彼女の稼ぎが暮らしを支えているようだった。
仕事がなくなれば、生活は困窮するのだろう。
「フラウレティアは、許すって言うんですが」
マーサが言葉を切って後ろを向いた。
「ごめんなさい」
マーサよりも少し後ろに立って、小さくなって謝ったのはフラウレティアだ。
「フラウレティアが謝る必要なんてないよ」
マーサが腰に大きな手を置いて言うが、フラウレティアはやや俯いて固い表情のままだ。
「でも、私があんな所に置きっ放しにしていたから……」
「高価な品をわざと並べ置いてたならともかく、物を置きっ放しにして忘れることなんて、普通に誰にでもあるもんさ。わざわざ中身を開いて盗ったっていうんなら、あっちが悪いに決まってるよ」
マーサが僅かに苛立ちを滲ませた。
信頼していた仕事仲間の裏切りに、悔しさと共に怒りも持っているのかもしれない。
フラウレティアは下唇を噛んだ。
確かに、勝手に他人の鞄を開けて中身を盗ろうとしたのは悪いことなのだろう。
だが、フラウレティアの鞄の中身は、人間にとって珍しい物が多く、もしかしたらとても価値の高い物だったかもしれない。
アッシュにも注意されていたのに、簡単に誰の目にも付くような場所に置いておくべきではなかったのだ。
「……ごめんなさい」
今回の騒動のきっかけを作ってしまったのが、どうにも自分であるような気がして、フラウレティアは再び謝罪の言葉を口にした。
厨房の皆が納得しているのなら、三度窃盗のような真似をすれば、砦を去ってもらうことを約束させることを条件に、このまま下女の様子を見ることにした。
マーサとフラウレティアが執務室を出てから、ディードは控えていたエナを見た。
「エナ、今回の騒動は、お前の対応も原因の一つだ」
澄まして部屋の壁際に立っていたエナが、思わぬ言葉を掛けられて顔を向ける。
「原因? 何故ですか?」
「その場で第三者に騒ぎ立てられ、下女の対応が限られてしまったということだ」
エナは意味が分からず、眉を寄せる。
「当事者ではないなら、みすみす盗みを見逃せば良かったということですか?」
「そうではない。だが、お前が声を大にして追い詰めたことで、下女は落ち着いて自分の行動を振り返る時間を与えられなかった。考える時間があれば、もしかしたら、過ちを悔いて自ずと謝罪することも出来たかもしれない」
フラウレティアは下女の行為を疑っていなかった。
その時のことを聞けば、むしろ、下女の好意とも思える言葉を、嬉しかったとすら言っていた。
本当に悪意に染まった人間でなければ、純粋に向けられる無垢な心を、故意に踏み躙りたいとは思わないものだ。
フラウレティアの気持ちに触れれば、下女ももしかしたら、違う反応が出来たかもしれない。
しかし、ディードの言い分は、エナには理解し難いことだった。
より一層表情を険しくして、エナが言葉を続ける。
「自ら罪を犯した奴が罰せられるのは、当然ではないですか」
「確かにそうだ。しかし、公開処刑のようにされては、彼女は今後とても苦しい立場に立たされてしまう。フラウレティアも、再び注目されてしまった」
騒ぎを知らされたマーサが厨房に駆けつけた時、多くの人の目に晒されて、下女は顔色を無くしてフラウレティアに謝罪したところだった。
フラウレティアもまた、呆然として動けず、囲まれたまま成り行きを見ていた。
少しずつここでの生活に馴染んでいたのに、思わぬところで目立ってしまった形だ。
「…………罪は、罪です。裁かれるのは当然です」
頑なに言ったエナに、ディードはゆっくりと首を振って見せた。
「例え誰が罪を犯しても、裁くのはお前ではないよ、エナ」
エナはギュッと苦しげに顔を歪めた。
そして小さく「失礼します」と言うと、逃げるように部屋を出て行った。
フラウレティアは、マーサと一度厨房に戻る。
ミルクジャムの入った鍋を、放置したままだったことを思い出したからだ。
「フラウレティア、悪いんだけど、明日から暫くは厨房じゃなくて食堂で食べてくれるかい?」
「……え」
マーサは申し訳なさそうに、眉をハの字に下げる。
「暫くは厨房の雰囲気を見てみたいんだ。下女の様子もね。フラウレティアがいれば、どうしても皆アンタに同情的になるだろうから……」
大体厨房で食事をしていたのは、アッシュが一緒にいたからだ。
魔獣に警戒心を持ったままの兵士は少なくない。
食堂にアッシュを連れて頻繁に出入りしなくて済むように、厨房の隅で食事させて貰っていた。
だが、フラウレティアにとってはそれだけの理由ではない。
マーサや料理人達と交われるのが楽しくて、通っていたのもある。
それでも、ここで我を通すことは出来ず、フラウレティアはただ頷いたのだった。
部屋に戻っても、フラウレティアの気は晴れない。
ベッドに座ると、狭い部屋がやけに広く感じた。
フラウレティアは、腰掛け鞄からミルクジャムの瓶を取り出す。
煮詰める途中で放置したままだったものを、後で料理人が気付いて瓶に詰めてくれていたのだ。
ジャムのフタを開けて匂いを嗅ぎ、フラウレティアは力なく眉を下げる。
「…………焦げてる」
鍋に放置されたミルクジャムは、鍋底が焦げ付いて、全体に焦げ臭い匂いが移ってしまっていた。
これでは美味しくグレーンに食べてもらえないだろう。
フラウレティアは一つ溜め息をついて、部屋を出た。
こんな時にアッシュがいないのが、無性に寂しく、心細かった。
ドルゴールにいた時は、それなりに一人で何でも出来るつもりでいたが、人間の中に入れば自分はまだまだ子供で、一人では対処できないことばかりだ。
後一年もすれば、フラウレティアは16歳になり、人間の成人の歳だ。
しかし、何だか全く大人になれる気がしなかった。
少しだけ、ドルゴールに向けた南西の空を見たくて、屋上に足を向けた。
階段を登り切って、屋上に出たフラウレティアは、柵に凭れて夜空を眺めているギルティンを見つけた。




