想像もしていなかったこと
日の入りの時刻を過ぎ、片付けも終わった厨房で、今夜もフラウレティアは鍋を掻き混ぜている。
甘い匂いにつられて、今夜は兵士も数人交じって、後ろで鼻を動かしていた。
瓶に入り切らないミルクジャムを、最後に分けてもらうのが目的かもしれない。
甘い匂いの中で、時折雑談をして笑いながら、フラウレティアがもうそろそろ鍋を火から下ろそうかと思った時だった。
厨房の裏口が乱暴に開いて、若い男が中を覗き込んだ。
皆が一斉にそちらを見る。
男は、調剤室でエイムの助手のような仕事をしている、調剤士見習いだった。
彼はフラウレティアを見つけ、焦った声で言った。
「フラウレティア、グレーン薬師様が倒れた!」
フラウレティアの手から、ヘラが落ちた。
フラウレティアが病棟代わりの一室に飛び込んだ時、ベッドの上のグレーンに、ちょうどエイムが薬湯を渡すところだった。
「皆、大袈裟なのじゃ。年寄なのじゃから、少々よろけたっておかしくなかろうに」
ベッドの上で上半身を斜めに起こし、薬湯を嫌々すすりながらグレーンが言った。
「よろけただけじゃなかったと聞きました。……ごめんなさい、薬師様……」
フラウレティアが小さくなって謝った。
グレーンは、日の入りの時刻まで医務室にいたらしい。
自室に戻る為、医務室から出て歩いている途中で、気分が悪くてよろけた。
はずみで、その場で吐き戻して動けなくなったという。
「……嬢ちゃんのせいではない。儂が意地汚く食べ過ぎたのじゃよ」
グレーンが顔を顰めた。
最近特に食が細くなっていたのに、今日は急に食べ過ぎてしまって、後で気分が悪くなってしまったのだ。
甘い物に喜んでくれたので嬉しくて、夕食にもたくさん用意してしまったフラウレティアは、考えが足りなかったのだと気付いて反省していた。
夕食時はエイムが一緒でなかったので、止める人もいなかったのだ。
たくさん食べてくれたと報告して、エイムも喜んでくれたので、問題ないと思っていた。
「大丈夫ですよ、もう落ち着いています。すみません、私もちゃんと見ていなかったから」
エイムがフラウレティアの肩を優しく叩く。
「そうじゃ、そうじゃ。おぬしがちゃんと儂を管理しておらぬからこうなる」
「師匠が自分で言わないで下さいっ」
フラウレティアが何か言う前に、グレーンがエイムに向かって茶化して言うので、エイムが顔を顰めた。
「…………そんな顔をせんでおくれ」
二人の軽口にも、少しも表情が緩まないフラウレティアを見て、グレーンが白い眉を下げた。
「嬢ちゃんの用意してくれた物は、本当に美味かったのじゃ。久しぶりに食事が楽しかった。今度は少しずつ食べるから、また明日用意してくれんかのぅ?」
グレーンは固い手で、そっとフラウレティアの頭を撫でた。
「……はい」
フラウレティアは小さく返事をして、何とか笑みを浮かべた。
フラウレティアは厨房へ戻りながら、無意識に左肩に手をやる。
そこにアッシュはいない。
心細くなると、すぐにアッシュに頼りたくなる自分に気付き、フラウレティアは唇を引き絞り、ぶんぶんと首を振った。
「落ち込んじゃダメダメ」
わざと声に出してみる。
薬師様はエイムさんが診て下さる。
ミルクジャムを喜んでくれたのは確かなのだから、明日も用意して、今度はちゃんと様子を見ながら食べて貰おう。
よし、と気分を切り替えて、フラウレティアは厨房の裏口を開けた。
厨房の隅にある机の前で、扉の開いた音にビクリと身体を震わせた下女と、目が合った。
下女は、机の上に置きっ放しだった、フラウレティアの腰掛け鞄を手に持っていた。
厨房に入る時は邪魔なので、最近はここに置くようになっていた。
さっき、グレーンが倒れたと聞いて飛び出して行ったので、置いたままだったのだ。
「……それ、私の……」
「あ、やだ、違うのよ! 置きっ放しだったから持って行ってあげようかと思ったのよ」
何が違うのか分からないが、下女がやや上擦った声で早口で言う。
「それに、ほら、少しほつれてるところもあるから、気になって。……良かったら、直してあげようかなって」
机の上に鞄を置き直して、代わりに椅子に掛けてあった自分の前掛けを取る。
そして、鞄の口のところを指しながら、前掛けを手早く畳んだ。
フラウレティアは鞄を見る。
確かに、口のところが少しほつれているようだ。
「ありがとうございます。でも、いつも自分で直すので大丈夫です」
フラウレティアは素直に頷いた。
長年使っているので、ほつれたり痛んだところは、継いで使っている。
針と糸も、ちゃんと鞄の中に入っている。
たまに厨房の手伝いをするだけのフラウレティアの、鞄のほつれまで気にしてくれるなんて、人間はなんて情の深い生き物なんだと、少し感激した。
そんなフラウレティアの耳に、険しく固い声が響いた。
「適当な嘘をつくな」
見ると、食堂に繋がるカウンター横に、エナが立っていた。
手にした盆の上にポットがあるのを見るに、湯を貰いに来たのだと分かった。
エナは盆をカウンターに置き、乾いた藁のような頭を少し下げて、下女を指す。
その目付きは険しい。
「砦で他人の物に手を付けて、見逃してもらえると思っているのか?」
「な、何言ってるの? 私は何も……」
下女が明らかに狼狽えた。
フラウレティアは意味が分からず、鞄の置かれた机に向かいながら目を瞬いた。
「……あの?」
「分かってないのか? コイツ、お前の鞄から何か盗ろうとしてたんだぞ」
「え?」
全く想像をしていなかった内容に、フラウレティアはただ驚いて下女の方を見た。
「エナさん、そんなはずありません」
フラウレティアには、エナの主張がしっくりとこなかった。
厨房には、毎日食事や手伝いで入っていて、働いている人達とは良好な関係を築いていると思っている。
目の前の下女とも、毎日他愛もない話をして笑い合っていた。
フラウレティアの私物を盗ろうなんて、あるはずがないと思ったのだ。
しかし、下女がはフラウレティアの視線を正面から受けることが出来ず、半身を引いて視線を漂わせた。
エナは確信して、一歩踏み出す。
「出せよ。ちゃんと謝れ」
「だ、たから、何のことか分からないってば……」
どことなく揉めている雰囲気を察して、食堂で屯していた数人の兵士と料理人が、席を立って近寄ってきた。
何だ、どうしたと口々に言いながら、人が近寄ってくるのを見て、下女が一層狼狽えた。
「お、お願いだから、やめてよ。勝手に鞄を触ったのは悪かったよ、ごめん」
言って踵を返そうとする下女の腕を、エナは許さないとばかりに強く引いた。
弾みで、下女の手から前掛けの端が離れ、開かれた前掛けから小さな石が転げ落ちた。
下女が強く身体を強張らせる。
「…………これは?」
冷たく石を見下ろしてから、エナが下女の方へ向いたが、彼女は顔色を悪くして目線を上げない。
「お前の物じゃないのか?」
エナに視線を向けて聞かれ、フラウレティアは目を瞬いて石を見つめた。
「……私の物です」
落ちた石は、確かにフラウレティアの腰掛け鞄に入っていた浄化石だった。