老薬師の独白
「嬢ちゃん、アッシュがいないのに、今日はご機嫌じゃのう」
医務室でそう笑ったのはグレーンだ。
フラウレティアが運んできた昼食のスープに、パンを浸して口に入れる。
「え? そうですか?」
フラウレティアは、口の中の物を急いでごくんと飲み込んだ。
「アッシュが側におらんと、怒ったり心細そうにしているところしか、見たことがなかったがのぅ」
からかうように言って笑うグレーンに、フラウレティアは頬を赤らめた。
「私、そんな風でしたか?」
「ほっ。自覚がなかったのかの?」
長いヒゲをモサモサと揺らして笑うグレーンを、笑いながら軽く睨んで、フラウレティアは煮込みをスプーンで口に運ぶ。
昼休憩に食堂へ行くのが億劫なグレーンは、盆で運んできてもらった食事を、いつも医務室の隅で食べる。
忙しい時は、昼もだいぶ過ぎてから冷めきった食事を摂ることもあるが、今日はちゃんと昼の時間だ。
フラウレティアも向かい側に座って食べていた。
今日はエイムが忙しいようで、一緒に食べるよう頼まれたのだ。
グレーンは最近の暑さで食が進まないらしく、一人で食べさせると、好きな物を少しだけしか食べないのだとか。
アッシュは今朝、日の出の鐘が鳴る前に、砦を出てドルゴールへ帰った。
魔穴の厄介な魔の森も、翼竜の翼なら、難なく上空を通り過ぎて行ける。
きっと、もうとっくにドルゴールへ帰っているだろう。
離れるのはやっぱり心細く感じるが、今回は目的が分かっているので、落ち着いて待っていられる。
それに、隠匿の魔法を覚えて戻ってくれば、人間の街に行く間も一緒にいられる。
フラウレティアの顔に、自然と笑みが浮かぶ。
人間の街に行くことをしっかりと想像したことはなかったが、やはり、アッシュがずっと一緒だと思うと、胸が温かくなってホッとするのだ。
『粗忽者』だと突き放されたような気がしていたが、アッシュに隠匿の魔法を教えることを提案してくれるとは、ハルミアンも優しい。
おかずに手を付けずにスプーンを置いてしまったグレーンに気付き、フラウレティアが声を掛ける。
「薬師様、もう少し召し上がりませんか?」
「それは嫌いじゃ」
グレーンが示したそれとは、肉と野菜が炒められたものだ。
グレーンが食べやすいように、細かく切られている。
「一口だけでも」
「…………それではなく、甘い菓子が食べたいのぉ」
そっぽを向いてそんなことを呟くグレーンに、フラウレティアは呆れる。
「薬師様、子供みたいですよ」
「ほっ。知らんのかの? 年寄はどんどん子供に戻っていくものじゃよ。だからわがままで良いのじゃ」
「本当ですか?」
胸を張るようにして肯定するグレーンを見て、フラウレティアはくすくすと笑う。
グレーンとこうして話すのも、毎日の楽しみだ。
美味しそうに食べ、楽しそうに話して笑うフラウレティアの姿に、グレーンは目を細める。
「良い顔で笑うようになったの。ここでの暮らしは、楽しいかの?」
「はい!」
フラウレティアは、満面の笑みで元気に返事をした。
「それで、アッシュはドルゴールからいつ帰って来るのじゃ?」
「魔法を覚え次第……」
会話の途中で、当たり前に挟まれた質問に、フラウレティアは笑顔のままで答えかけた。
ハッとして、皿に向けていた視線を上げる。
目の前には、普段通りの優しい瞳で、グレーンがこちらを見ていた。
「えっ、と……、あの……」
フラウレティアは口籠って、スプーンを強く握る。
グレーンは今、確かに“ドルゴール”と言った。
ディード達には全て話したが、他の人達には暫く砦にいられるようになったこと以外、話していないはずだ。
ディードが話したのだろうか?
しかし、それならばフラウレティアに一言くらいあるはずだ。
「おお、すまんすまん。驚かせてしまったな。心配せんでも大丈夫じゃ。儂が勝手に想像して尋ねただけで、他の誰にも話しておらんよ」
すっかり顔色を失くしてしまったフラウレティアを見て、グレーンは眉を下げる。
強くスプーンを握っているフラウレティアの手を、優しく叩いた。
「嬢ちゃんは知っておるかの? 薬学の知識の多くは竜人族が人間に与えたものでな、今でも基本的な表記は、竜人語を使っておる。最近では、誰でも分かるように人語表記も使うがの」
グレーンは棚の瓶を指差す。
フラウレティアは目を瞬いて、壁一面に並んでいる箱や瓶のラベルを見た。
どのラベルにも、エイムの几帳面な文字で薬の名前などが書かれている。
その文字は、この世界の多くの人間が使う文字だ。
しかし、上部に隙間なく並べられた木箱だけには、竜人語でのみ表記がされていた。
その中には、初めて医務室に来た時にアッシュに取ってもらった〔アーブの葉〕と書かれた箱もある。
「……あ……」
「嬢ちゃんは、あの時当たり前にアーブの葉が入った箱を見つけたじゃろ? アッシュは従魔には見えんし、もしや竜人族なのではないかと考えた。……まあ半分は勘じゃったが、どうやら当たったのかの?」
ほっほっと楽しそうにグレーンが笑う。
フラウレティアは改めてグレーンの方を見る。
彼は少しも変わらず、柔らかい視線でフラウレティアを見ていた。
グレーンは入り口をちらりと見遣り、誰も来そうにないことを確認して口を開く。
「儂は若い頃、薬学を学ぶ流れで、竜人族についても興味を持ってな……」
グレーンは薬師になるべく、フルデルデ王国の王立学園を卒業した後、王都の薬師館に勤務しながら薬学研究に明け暮れた。
薬学は、竜人族とは切り離せないものだ。
薬学について深く知ろうとする程、竜人が人間に与えて来た膨大な知識にのめり込んだ。
そして、その圧倒的な存在であった竜人族が、人間の手によって世界から弾き出されたことに、疑問を持つようになった。
人間はなぜ、こんなにも優れた種族を切り捨ててしまうのか。
そして同じように、この世界には人間の勝手によって乱獲され、失われつつある動植物も多く存在することを知る。
その中には、薬材となる物も多かった。
「既に失われて、二度と手に入らない薬材もある。それがあれば、もっと多くの病を治せるのにと、歯噛みしたものじゃ」
グレーンは一度話を止めて、胸を押さえた。
フラウレティアはすぐに近付いて、背を擦る。
膝の上で握られているグレーンの拳には、白く節が浮き立っている。
「…………もしも、竜人族が絶滅せず、ドルゴールの地で生き残っているのなら……」
グレーンが低く呟いた言葉で、フラウレティアは手を止める。
「人間と手を取り合い、再び共存することは出来ないだろうか。失われた知恵を共有し得るような関係を、新たに築くようなことにはならないだろうかと、……儂は夢のような事を、ずっとずっと、考えておったのよ」
咳き込むグレーンの背を、フラウレティアは再び擦る。
何と言葉を発すれば良いか、よく分からなかった。
「のぅ、嬢ちゃん。嬢ちゃんは……」
グレーンは固い声で言って、顔を上げる。
フラウレティアを見上げたグレーンの瞳は、白く濁っているが、薄茶色の奥にはまだ強い光がある。
しかし、グレーンは長いヒゲを小刻みに揺らすと、そのまま視線を逸した。
「……喋り過ぎて疲れたわい。嬢ちゃん、茶を入れてくれるかの?」
そう言って笑ったグレーンは、いつもの様子に戻っていた。




