一人になるのは
重くなった部屋の空気を払うように、パンッと乾いた音を立てて、レンベーレが両手を合わせた。
その顔には笑みが戻っている。
「ごめんごめん! こんな話をするつもりじゃなかったのよ」
声の調子を上げて、仕切り直すつもりなのが分かったので、フラウレティアはそれ以上十四年前のことを聞くのをやめた。
「フラウレティアは暫くここにいるみたいだけど、砦を出てアンバーク領内で人間の生活を見てみるなら、何か仕事をする? ただのお客様っていうのは、居心地悪いんでしょう?」
レンベーレが、整えられた爪先で顎をなぞる。
大体、フラウレティアが人間の社会生活を学ぶ為に、領街で生活出来るだろうかとディードから相談を受けて、砦に来たのだ。
砦での生活を見聞きした限り、フラウレティアはじっとしているのは性に合わなさそうだ。
客分扱いより、実際に領民の生活に混じる方を選ぶだろう。
レンベーレの予想通り、フラウレティアは大きく頷いた。
「えっと、得意なのは狩りと獲物の処理や加工ですけど、お仕事を与えてもらえるのなら、何でも一生懸命頑張ります!」
真っ直ぐな反応に、レンベーレは満足そうに笑う。
「革加工職人の手伝いなんかでもいいけど、せっかくなら全く違う仕事をさせてみたいわねぇ。いいわ、それまでに考えておく! 任せてくれる?」
「はい、よろしくお願いします」
フラウレティアはペコンと頭を下げる。
昨日アッシュを連れて行かれてから、何となくレンベーレには構えた気持ちになっていた。
しかし、師匠の言う通り、彼女も信頼して良さそうだ。
フラウレティアはホッと小さく息を吐いた。
「それで、その場合、一人になる覚悟は出来てるの?」
気を緩めた途端に投げ掛けられた問いに、フラウレティアは一瞬頭が真っ白になった。
「え? 一人?」
自分でも驚く程、声がひっくり返った。
「あら? もしかして、想像してなかった? 砦を出て領内に入るなら、アッシュ君は連れていけないわ」
「えっ、どうして……」
「それはまあ、街の人々にとっては、アッシュ君は魔獣……ましてや翼竜だもの。脅威以外の何物でもないわ。例え従魔だと主張しても、郊外ならともかく領街へは連れて入れない」
フラウレティアの血の気が引く。
「でもっ、ここでは受け入れてもらえました」
最初は衝突しかけたが、今ではほぼ受け入れられている。
勿論自分だけの力ではないが、別の場所に行っても、同じ人間の場所なら、また同じように受け入れてもらえるのではないかと思ってた。
しかし、レンベーレは困ったような顔で薄く笑う。
「あのね、ここで何とかやれてるのは、ここにいる人達の殆どが、魔獣と戦う術を持っている人達だからよ。そういう人達に守られて生きている、一般の人達は簡単に受け入れられないわ」
フラウレティアは小さく息を呑んだ。
アッシュと共にいては、一般の人間には受け入れられない。
それは、フラウレティアの胸に深く刺さった。
アッシュと共にいることは、フラウレティアにとっては日常であって、とても自然なことだ。
しかし、それでは受け入れられないという。
まるで、ドルゴールで育ったフラウレティアは、そのままでは人間社会には入れないのだと言い渡されたようだった。
フラウレティアは突然、ベッドから勢い良く立ち上がった。
「レンベーレ様、ごめんなさい。私、アンバーク領内には行きません」
「え? あれ? 思ってたより決断早いな。もう少しゆっくり考えて大丈夫なのよ?」
まさかの答えに、レンベーレは組んでいた足を下ろして前のめりになった。
フラウレティアはぶんぶんと首を振る。
「いいえ。アッシュと別れないといけないなら、行きません。私、アッシュと離れるのは嫌です」
人間の生活を知りたいと思ったが、何故だか、どこにいてもアッシュは一緒にいるものだと思っていた。
物心ついた時から、ずっと一緒にいたからかもしれない。
腰掛け鞄を探しにアッシュが出ていった時、不安で、寂しくて堪らなかった。
レンベーレにアッシュが付いて行った時には、酷く嫌な気持ちになった。
自分でもよく分からない。
でも、もう、離れるのは嫌だった。
別々に暮らすなんて、絶対に嫌。
想像しただけで、身体の内から冷たいものが広がっていく気がした。
「アッシュと離れるのは……、絶対に嫌です」
「いや、でもほら、領街に行ってみて無理だと思えばドルゴールに帰るっていう手もあるし……」
レンベーレの言葉に、フラウレティアは頑なな樣子で首を振った。
「嫌です」
キュッと唇を引き絞り、思い詰めたような顔をするフラウレティアに、レンベーレは大きく息を吐いた。
軽く笑って、立ち上がって手を伸ばす。
「……フラウレティア、大丈夫だって。ごめん、実はね……」
レンベーレの右手がフラウレティアの肩に触れた。
瞬間、触れた掌に強力な魔力を感じ、レンベーレは言葉を続けられず、目を見開いて身体を震わせた。
あまりの衝撃に、カクリと膝が折れて椅子の上に腰を落とす。
自然とフラウレティアの肩から手が離れて、止めていた息を吐いた。
「レンベーレ様?」
突然様子の変わったレンベーレに、フラウレティアは驚きながら顔を近付ける。
その見開かれた大きな瞳に覗き込まれ、レンベーレは息を呑んだ。
フラウレティアの瞳の色は、血のような深紅だった。
「人間の父親って、どういうものだ? 娘が笑うと、胸が痛むものなのか?」
フラウレティアとレンベーレが出て言って、執務室にディードとアイゼルだけになると、身を乗り出すようにしてアッシュが突然聞いた。
一瞬ポカンとしたディードの側で、額を押さえたアイゼルが呻くように言う。
「ここは竜人族のお悩み相談室か?」
「仕方ないだろう! 俺が聞ける人間はアンタ達しかいないんだ!」
牙を剥きそうなアッシュに、ディードが片手を上げる。
「まあ、待て。『娘が笑うと』って、フラウレティアのことか?」
「他に誰がいる!?」
「…………フラウレティアは、君にとって娘なのか?」
ディードの問いに、アッシュは一瞬怯んだ。
「分からない。少なくとも娘だと思ったことはなかったが、竜人と人間では、感覚が違うのかもしれない。……アンタには娘がいるみたいだし、分かるんだろう?」
アッシュは大きな爪の先で、執務机の上に立てられている肖像画を指す。
ディードは僅かに眉根を寄せた。
赤ん坊の頃に亡くなったアンナ。
あの日、領街中央にあるディードの館でなく、領主館にいた為に、魔穴に巻き込まれて妻と共に亡くなった。
生きていれば、もう15歳になる。
妻に似て、よく笑う明るい娘になっただろうか。
弾むように駆けて来て、『お父様』と呼んで笑ってくれたなら……。
今まで数え切れない程想像したことを反芻して、ディードは自然と胸を押さえる。
「………………確かに、胸が痛むな」
絞り出すように言った言葉は、しかしアッシュには別の意味で伝わった。
「そうか……そうなんだな」
やはり、この胸のチクチクは、“父親”というものが娘に感じるものなのだ。
そんなつもりは全くなかったが、フラウレティアを大事にしている内に、気付かないままに自分は“父親”というものになっていたのかもしれない。
アッシュの頭にハドシュの顔が思い出される。
ではハドシュもまた、フラウレティアに対してこんな風に胸をチクチクさせているのだろうか。
そう考えると、何だか今度は胸がムカムカするアッシュなのだった。