戸惑い
医務室の建物裏に並んだ物干しに、洗濯した包帯や白い布が並んでいる。
風が吹いてはためくと、大きな布の向こう側に、別の物干しに洗濯物を干すフラウレティアが見えた。
後頭の高い位置で括った銅色の髪が揺れ、隣で一緒に洗濯物を干している下女と何か話して、楽しそうに笑う。
その笑顔は、陽光のせいか、やけに眩しい。
火の季節の日中だというのに、彼女は炎天下で洗濯物を干すのが少しも苦痛でないようだ。
不意に、干された布の影から翼竜が手伝っているのが見えて、本館の渡り廊下からそっと見ていたエナは、顔を顰めて視線を逸した。
「可愛いわよねぇ、フラウレティア」
「わあっ!」
急に斜め後ろから声を掛けられて、外に意識を向けていたエナは仰天した。
両手に持っていた盆の上の茶器が、ガチャと音を立てる。
「驚かさないで下さい、レンベーレ様!」
声を掛けたのはレンベーレだった。
今日も太く一本に編まれた赤褐色の髪を、重そうに垂らしている。
「あら、普通にここを歩いてただけよ。別にこっそりと近寄った訳じゃないのに、エナったら、ちっとも私に気付かないんだもの。……よっぽど集中して見てたのねぇ」
最後の一言は、含みある笑みと共に言われる。
エナはバツが悪そうに顔を歪める。
「……別に、たまたま見えただけです」
「あらぁ、誤魔化さなくてもいいじゃない。エナと同年代の女の子なんて、ここにはいないし、気になるわよねぇ」
赤い唇でニンマリ笑っているレンベーレは、間違いなく楽しんでいる。
エナはあからさまに嫌な顔をして見せる。
「そんなんじゃありません!」
だが、その否定の言葉はレンベーレには届かないらしく、彼女は「いいから、いいから」と言いながら楽し気に笑ったままだ。
「本当にそんなんじゃないんです」
エナは大きく溜め息をついて、細い目でちらりと外を見た。
「……ディード様が、前にあの子の前で大笑いしたんです」
「……大笑い?」
レンベーレの冷やかすような笑みが消える。
「はい。あの子が来てすぐだったと思います。兵士達が翼竜に敵意を見せた時に……」
エナは詳しく説明する。
食堂前の廊下で、初めて翼竜を間近に見た兵士達が敵意を露わにした時だ。
両者がぶつかることを懸念したディードが急いでその場に向かったが、フラウレティアと翼竜のやり取りと、翼竜の反応を見て大笑いした。
「……本当に?」
レンベーレは目を瞬いた。
ディードが声を上げて楽しそうに笑ったところなど、かれこれ十数年は見ていない。
昨日、アッシュが執務室に乱入して狼狽していた時に、フラウレティアとアッシュのやり取りを見て噴いていたので驚いたが、まさかその前に大笑いするような時があったとは。
十四年近く前にアンバーク領で起きた事故で、ディードは最愛の家族を根こそぎ亡くした。
絶望の淵から何とか立ち上がったディードは、しかし、強く感情を表す術を忘れてしまったようだった。
若い頃から、どちらかと言えば感情の起伏は穏やかな方だったが、今はいつ会っても同じ様な表情に見える。
一見穏やかそうだが、彼と近しい者にとっては、その平坦さが心配だった。
「私達がどれ程働きかけても動かなかったディード様の感情が、どうしてあの子と魔獣には簡単に動かせたのか、気になって……」
エナは唇を噛む。
エナは、ディードの従僕に就くまでは、孤児だった。
ディードが家族を失くした十四年前の事故で、エナの両親も亡くなって、孤児になった。
アンバーク領内の孤児院で育ち、当時新領主となったディードに多くを助けられて、従僕になる為の知識や所作を覚えた。
エナにとって、ディードは尊敬する主であり、恩人でもある。
その主が心から楽しそうに笑った姿は衝撃的で、それが、急に現れた余所者によってもたらされたことが悔しかった。
レンベーレは、エナから視線を外して外を見る。
医務室裏では、フラウレティアがまだ洗濯物を干していた。
フラウレティアが洗濯物を干すのを手伝っていたアッシュは、空になった籠を運ぼうと思い、咥えた。
「ありがとう、アッシュ」
お礼を言ったフラウレティアの満面の笑みを見て、思わずボトンと籠を落とす。
「あれ、運んでくれるんじゃなかったの?」
拾おうとするフラウレティアよりも早く、アッシュは慌てて籠を咥え直した。
フラウレティアと下女は、顔を見合わせて怪訝そうに首を傾げた。
籠を咥えて二人の先を飛びながら、アッシュもまた怪訝そうに目を瞬いた。
フラウレティアの笑顔に、何だか急に戸惑ってしまったのだ。
フラウレティアの笑顔を見ることは、砦に来て、以前よりもずっと増えた。
頻繁に見るようになったのだから、見慣れてきても良いはずなのに、何を戸惑うのか。
日に日に彼女の笑みが、輝くものに変わってきたからだろうか。
特に、二日前にディード達に本当のことを話してからは、胸のつかえが下りたからか、その輝きを増しているように感じる。
ちらと後ろを見れば、視線が合ったフラウレティアが柔らかく目を細めた。
フンと小さく鼻息で応えたアッシュの耳に、昨日の言葉が甦る。
『 私、アッシュの娘みたいなものなんでしょう? 』
娘。
そうだろうか。
確かに、赤ん坊のフラウレティアを見つけたのはアッシュだが、別に娘にした覚えはない。
フラウレティアに色々と教えたハルミアンが、アッシュ達を人間の家族構成に例えて、ハドシュを父、ミラニッサを母と覚えさせたようだが、その場合、アッシュは父ではなく兄ではないのだろうか。
どちらにしても、今まで漠然としていた関係を、明確に言葉にするのは何か違うような気がした。
ただ、フラウレティアにとっては、自分はハドシュと大して変わらない存在だったのかと思うと、何故かまた胸がチクリとするのだった。
日の入りの鐘が鳴って少しして、ディードの執務室の扉がノックされた。
扉を開けたエナが、廊下に立っているフラウレティアと、その肩の翼竜を見て身体を強張らせた。
エナの顔を見た途端にアッシュが軽く口を開けたので、フラウレティアは急いで左半身を引く。
「何のご用ですか?」
固い声で聞かれて、フラウレティアも思わず控えめに口を開く。
「あ……エナさん、あの、ディード様にお会いしたいんですが……」
「エナ、入って貰いなさい。お前は今夜はもう下がっていい」
続けてエナが口を開く前に、室内からディードの声がした。
確かにもう今日の仕事はなかったが、フラウレティア達と入れ替わりで部屋を出されるようで、何となく腹立たしい。
エナは無言でフラウレティアを招き入れると、室内に一礼して出て行く。
「まだまだ子供ねぇ」
ソファーで何やら書類を見ていたレンベーレが、可笑しそうに笑った。
「フラウレティア、何か用かな?」
レンベーレの向かいのソファーに座っていたディードが、柔らかく尋ねた。
「あの、実はアッシュが……」
フラウレティアが説明する間もなく、アッシュが肩から降りて突然変態した。
「用があるのは俺だ」
そう言って、フラウレティアの肩を持って回れ右させる。
「フラウは先に部屋に帰ってろ」
「ええ? どうして?」
「いいから!」
押し出すように入り口に向かわせるアッシュに、フラウレティアは不満顔を向ける。
「じゃあ、フラウレティアは私とお話しましょう? 昨日は何だかんだで話せなかったし」
レンベーレが書類を置いて立ち上がった。
昨日はアッシュが狼狽えたり、二人が仲直りしたりで、フラウレティアと話す感じにならなかった。
「今夜こそは女同士で、ね」
レンベーレはにっこり笑って、フラウレティアを連れて出て行った。
じわじわ進んでいるはず……。