衝撃の一言
執務室では、ディードとアイゼルが沈痛な面持ちでソファーに向かい合っていた。
「まさか、唯の一人も森を抜けられていなかったとは……」
アイゼルが溜め息のような呟きを漏らした。
『フルデルデ王国から派遣された兵は皆、魔の森で果てた』
ドルゴールに向かった兵達はどうなったのか。
ディードの質問に、アッシュは当たり前のようにそう答えた。
希望のある答えが返ってこないのだろうと分かってはいたが、はっきり事実を突き付けられると、胸の内に重石を入れられたような気分だった。
フルデルデ女王の命を受け、この砦の門を潜ってドルゴールに向かったのは、傭兵を含む兵団が二度、そして騎士団が一度だ。
どれも、薬師や森の案内役の狩人達を含めれば、三十人弱の団体だった。
ドルゴールに辿り着くためには、魔の森を抜け、荒野を渡らなければならない。
しかし、アッシュ達竜人は、荒野まで辿り着いた人間は一人も見ていないのだという。
そして、度々行う見回りでは、魔の森で多くの兵士達の死体を見つけたらしい。
その者達は確かに、フルデルデ王国の国章を付けていた。
「……正に、あの森の奥は人間の手出しできない領域なのだな」
ディードは額に手をやって低く言った。
『ひ弱な人間がいくら集まったところで、ドルゴールへ辿り着くなんて無理な話だ。竜人族の血肉を手に入れることなんて出来ない』
アッシュのあの言葉は、根拠のない自信ではなく、彼等にとっての事実なのだ。
きっと国が総力を上げて挑みでもしない限り、人間の力では、魔の森を抜けることが出来ない。
ドルゴールは天然の要塞のような物なのだ。
「面白いもの見たわ〜」
執務室の陰鬱な空気を吹き飛ばすように、明るい笑い声を上げながらレンベーレが戻って来た。
翼竜を一人で帰すわけにはいかず、レンベーレはフラウレティアのところまで送って行ったはずだが、何があったのだろう。
「何かあったのか?」
寄せていた眉根を広げて顔を上げたディードに、レンベーレは赤い唇でにんまりと笑う。
「アッシュ、ヤキモチ焼いてフラウレティアと喧嘩になっちゃったんです」
「喧嘩?」
ディードは怪訝そうに復唱した。
さっき、レンベーレがアッシュを連れて階段を降りていた時、二階まで降りたアッシュが、何を感知したのか突然猛スピードで飛んで行った。
「えっ!? アッシュ、そっちは別館よ」
西棟へ出て医務室に向かうつもりだったのに、反対の渡り廊下の方へ飛んでいったアッシュを追い掛けたる。
アッシュが病室代わりの一室に飛び込んだのを見て、レンベーレも急いで覗き込んだ。
「アッシュ! だめっ!」
フラウレティアは、アッシュを頭上から引き下ろすと、エナを睨んで唸るアッシュの首を引っ張った。
見上げてくるアッシュの目は、明らかに強く不満を表していて、フラウレティアは困惑する。
「……な、何なんだよっ」
フラウレティアがハッとして顔を上げれば、エナが窓枠を掴んで、何とか立ち上がったところだった。
せっかく和らいでいた表情は、恐れと羞恥が交じって、再び強張ったものになっている。
「エナさん、ごめんなさい、アッシュは……」
「触るな!」
手を伸ばしかけたフラウレティアに、エナは一言で突き放して、逃げるように入り口に向かう。
レンベーレが立っていることに気付いて、バツが悪そうに顔を歪めて、横を擦り抜けて出て行った。
エナが部屋を出ていったことを確認して、アッシュは満足したように大きくフンッと鼻を鳴らした。
「……アッシュのバカ……」
頭上から降っきてたフラウレティアの声に、アッシュは顔を上げようとしたが、途端に体を支えていた両手を離された。
床面スレスレで羽ばたいて、落下の衝撃はなかったが、床に降りたアッシュは不満を露わに顔を上げる。
キュッと唇を引き絞り、眉根を寄せて、フラウレティアがアッシュを睨んでいた。
「せっかくエナさんとも仲良くなれるかと思ったのに、あんな風に凄むなんて酷いよ。また嫌われちゃうかもしれないじゃない」
しかし、アッシュはツンと顎を上げる。
尻尾の先で、小刻みにパシパシと床を叩き、翼は軽く広がっている。
その様子は相当不満気で、自分が悪いとは全く思っていないようだった。
「アッシュってば!」
フラウレティアが咎めるような声を出すと、反抗的にウウと小さく唸ってみせた。
フラウレティアの眉間のシワが、ギュッと深くなる。
「もう! アッシュなんて嫌い!」
言い捨てて、フラウレティアは駆け出す。
入り口でレンベーレに気付いて一瞬怯んだが、ペコと小さく頭を下げて、そのまま走り去った。
「あららぁ……」
レンベーレが呟いて見遣った窓際で、呆然とした白い翼竜が力なく翼を垂れた。
「あれ? 今度はアッシュだけがいる……」
昼をだいぶ過ぎて、再び調剤室から木箱を抱えてエイムが出てきた。
フラウレティアがいないのにアッシュだけがいて、しかも何故か、床を歩いて行ったり来たりしている。
突然翼を広げて飛ぼうとしたかと思うと、思い直したように翼をしまって、また歩き出す。
「……何やってるんです?」
思わず言ったエイムに、物凄く機嫌が悪そうに、鼻面にシワを刻んでアッシュが小さく唸った。
エイムはサッと一歩避けて、診察台の前に座っているグレーンに近付く。
「フラウレティアさんは?」
「食堂じゃよ。どうやら喧嘩したようじゃな」
髭をモサモサと揺らしてグレーンが笑うと、アッシュは唸り声を大きくする。
「おお、怖い怖い」
少しも怖がってないような声でグレーンが言ったので、アッシュはフンと鼻を鳴らして顔を背けたが、また落ち着かないように歩き回り始めた。
エイムは、呆れて眉を上げた。
木箱を置いてグレーンに寄り、アッシュを指差して小声で聞く。
「どうするんですか、あれ」
「どうもせんよ。このぶんじゃと、今までたいした喧嘩もしてこなかったのじゃろ。何事も経験、経験」
グレーンは髭をしごいて、さも楽しそうに笑った。




