拾われた赤ん坊 2
約十五年前、ドルゴールへと続く魔の森の中を、アッシュは父親であるハドシュと共に見回りをしていた。
魔獣を狩ることであったり、特殊な植物の採取であったり、その目的は様々だが、魔の森には時々人間が足を踏み入れる。
そして、魔穴や魔獣のせいで命を落とすことが多かった。
それで、竜人達は定期的に見回りに出ているのだ。
人間だけでなく、獣や魔獣であっても、死体は魔法の炎で焼いておかなければならない。
死体をそのままにしておけば、更に魔獣が湧くからだ。
年若いアッシュは、見回りに出るのはその日が二度目だった。
そして偶然、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて倒れていた女を見つけた。
魔穴に巻き込まれて魔の森に飛ばされたのか、この周辺で息絶えた人間を何人も見た。
そんな中、女は辛うじてまだ息をしていた。
虫の息だった女は、アッシュが人間でないと分からなかったのか、分かってはいたがそんなことはどうでも良かったのか、胸に抱いた赤ん坊を託そうと、残された力を振り絞ってアッシュに縋った。
「この、子……フラウ……レティアを……」
そう言って、アッシュの大きな手に赤ん坊のフラウレティアを委ねた。
まだ生きている人間を間近で見たのも初めてなら、その赤ん坊を見たのも初めてで、アッシュは驚いてろくな反応も出来なかった。
そして、片手に置かれた赤ん坊が、女の腕を離れた途端にぐにゃりと身体を垂らしたので、慌てて両手で掬うように抱き上げた。
その柔らかさ、熱、僅かな重み。
初めて手にした驚くほど小さな命に、アッシュはただ見つめるだけで、立ち尽くしていた。
突然、ふやあとフラウレティアが泣いて、アッシュは我に返った。
既に足下に倒れた女は息絶えている。
「何を持っている?」
別の場所を見て回っていたハドシュが、いつの間にか側に来ていて、アッシュの手の上の赤ん坊を見遣った。
ハドシュは竜人の中でも高齢の域に入る、ドルゴールの古参だ。
フルブレスカ魔法皇国が存在した頃から生きていて、皇国が滅んだ後、ドルゴールへと逃げ延びた竜人の一人だという。
白い鱗の浮く肌はくすみ、傷だらけだが、その動きはまだ、若い者とそれほど変わらないように思える。
「人間の子供か」
無表情に言って、ハドシュはアッシュの手から赤ん坊を取り上げる。
そのまま女の腕に戻そうとするので、アッシュは慌てて取り返した。
赤ん坊は、ふやあふやあと泣きながら、アッシュの大きな爪先を握った。
「まだ生きている」
「確かにまだ生きている。だが、母親が死んだなら、生きてはいけない」
魔獣の赤ん坊でも、生まれたばかりの頃は親に餌を貰う。
親が死に、世話をする者が周りにいなければ赤ん坊も死ぬ。
それは、自然の摂理だ。
「連れ帰って、世話をすればいいだろう」
アッシュの口から、自分でも驚くほどすんなりと言葉が出た。
ハドシュは小さく溜め息をついた。
害獣であったり、糧とするなどの目的がなければ、竜人は生きているものを進んで殺したりはしない。
だが、世話をして育てるのは別の話だ。
「……誰が世話をする? 人間の赤ん坊など虚弱で、我々には生かす術はない」
「…………俺が、俺が世話する!」
自分でも育てられるなんて思っていなかった。
それでも、アッシュは手の中の小さな命を手放せなくて、辛うじてそう宣言した。
ハドシュは暫く黙って考えていた。
ちょうど番のミラニッサが、自分の子を産んだばかりで、目の前の赤ん坊をこの場に放置していく気分にはなれなかった。
ハドシュはアッシュの手の中から赤ん坊を取り上げる。
「何するんだ!」
「連れて帰るのだろう。お前はまだこの地に不慣れだ。私が連れて行く」
不服そうに口を噤んだアッシュを一瞥して、ハドシュはフラウレティアをドルゴールへ連れ帰ったのだった。
ハドシュが人間の赤ん坊を連れ帰ったことは、ドルゴールの竜人達に少なからず驚きをもたらした。
しかし、誰もが強く興味を持たなかった。
虚弱な人間の赤ん坊など、すぐに死ぬと思っていたからだ。
ハドシュ自身も、連れ帰ったからといって、特に手厚く世話をするつもりはなかった。
とりあえず、多くの赤ん坊に必要な保温をして、果樹園から適当な果物をもいで、果汁を与えた。
しかし、赤ん坊は果汁を飲み込めず泣き続ける。
与えた物で生きていけないのなら、それはそれで仕方がない。
ハドシュはそのまま様子を見るに留めた。
放置されたにも等しい赤ん坊は、みるみる元気をなくした。
子を産んだばかりのミラニッサは、さすがに見ていられなかったのだろう。
狼狽えていているアッシュに、ドルゴールの隅に住んでいる唯一人のエルフ、ハルミアンに助力を求めるように言った。
「あいつ、阿呆なの?」
尋ねて行って助力を乞うたアッシュに対し、ハルミアンの第一声はそれだった。
「果汁を与えて放置って……」
老年のエルフは、美しく老いた顔を酷く顰めて、白い額を押さえた。
どうやらハドシュの行為に頭を痛めているらしい。
しかし、その後すぐに深緑の瞳でアッシュを睨んだ。
「人間の赤ん坊なんてね、弱くて手間はかかって、世話するなんてそりゃあ大変だよ。拾って来たハドシュがそれで、一体誰が世話するつもりなのさ。僕は知恵は貸せるけど、世話は無理だよ?」
ハルミアンは不自由な足を叩いてみせる。
長寿のエルフ族ではあるが、彼もそろそろ身体にガタがきているらしい。
「お、俺が!」
ここでもアッシュは堪らず宣言した。
頼みにしたエルフも、人間の赤ん坊を進んで世話するつもりではないようだし、こうなったら本当に自分がやるしかない。
「……ふ~ん、そう? じゃあ、頑張ってみなよ」
ハルミアンは興味深げにアッシュを見て、赤ん坊の世話の仕方を教えてくれた。
アッシュは赤ん坊の世話を、慣れない手付きで甲斐甲斐しく行った。
食事は家畜代わりの魔獣の乳や、穀物を柔らかく炊いて薄く濾したものを、布に含ませて与えた。
排泄物を取り除き、温めた湯で度々身体を拭き清める。
泣けばおぼつかない抱き方で揺らす。
見かねたミラニッサが少しずつ手伝いはじめ、何とか日を重ねていく。
何とか保ったと思われた赤ん坊は、しかし、ゆっくりと弱っていった。
ドルゴールの気候が悪いからか、食べ物が合わないのか、世話の仕方が良くないのか。
アッシュには分からないが、いくら世話をしても、体調は良くならない。
ハルミアンに見せても、『これがこの子の運命』だと、良い手立ては示してもらえない。
そして、とうとう赤ん坊は、布に含ませた魔獣の乳を殆ど吸えなくなった。
アッシュは焦った。
この手に乗せられた小さな小さな温もりを、今更手放すことは、どうしても我慢ならなかった。
切羽詰まったアッシュは、まだ竜形だった弟の“乳素”を布に含ませ、赤ん坊に飲ませた。
「竜人族は翼竜の姿で卵を産み、翼竜の姿で生まれるんです。成長と共に人形を持ち、どちらの姿でも自由に変態出来るようになります」
臙脂色の鳥はテーブルの上で、過去を思い出すように宙を見ている。
竜人には、胸部からの乳はない。
翼竜として孵化した後、卵殻の内側にある卵殻膜は、徐々に柔らかくなって粘性のある液状になっていく。
それを“乳素”と呼び、竜人の母親は乳素を口に含んで、上顎の分泌液と共に子に飲ませる。
それが竜人族の、いわゆる“乳”だ。
「フラウレティアは、あの時“乳”を飲んで回復しました。……いや、翼竜の分泌液が混じっていないから、正確には“乳素”ですね」
鳥の言葉に、ディード達は眉根を寄せる。
「……それは、どう捉えれば……」
フラウレティアは、一般的な人間よりも丈夫に育った。
それが、ドルゴールで成長したことによる環境のせいなのか、それとも、“乳素”を取り込んだことによる変化なのか。
「だからね、僕達にも分からないんです。あの時のことを“血肉”を食らったと言って良いのかどうかね」
鳥は、溜め息をつくように羽根を揺らした。




