翼竜の失態
不味い、失敗した。
ベッドから飛び上がって変態しながら、アッシュの頭に血が上る。
あれこれと考えていて、思考がそっちに引っ張られ、人形を現す前に、扉に施錠と静音の魔法を掛けるのを忘れていた。
フラウレティアを危険に晒さないために、自分が竜人族だとバレてはいけないと分かっていたはずなのに。
フラウレティアは、ドルゴールで竜人族と育った。
アッシュはずっと、フラウレティアは自分達と共にドルゴールで生き、ドルゴールで生を終えるものだと思っていた。
しかしあの日、偶然足を踏み外して魔穴に巻き込まれ、人間の世界に来ることになってしまった。
フラウレティアが、自分と同じ人間という種族に興味を持つのは当然のことだ。
それでも、十五年も人間と交わらず暮らしてきたのだから、同じ種族というだけで人間の暮らしを選ぶはずがないと思っていた。
それなのに、半月にも満たないこの短い期間に、フラウレティアは様々な人や物に、関心から好意に変わる感情を見せ始めた。
戸惑うアッシュを他所に、アッシュの庇護を必要とせず、逆にアッシュを庇い守るようにして、人間の群れに入っていく。
アッシュやハルミアン達にしか見せたことのない表情で、嬉しそうに瞳を輝かせて、自分を表現し始めている。
アッシュの胸の奥はモヤモヤした。
まさかフラウレティアは、人間との暮らしを選ぶ気になってるのだろうか。
フラウレティアは気付いていないのだろうか。
確かに今は、彼女を受け入れてくれるような者もいる。
だがそれは、彼女が竜人族と共に生きてきたことを知らないからだ。
それが知られた時、フラウレティアが心を許した人間は、変わらず彼女を受け入れるだろうか。
もしも信頼が覆された時、フラウレティアは大きく傷付くことにならないのだろうか。
フラウが泣くようなことになったら、俺は……。
「アッシュ駄目!!」
フラウレティアの叫ぶような制止の声が耳に入って、アッシュの牙は女の柔らかな肌に食い込む寸前で止まった。
大きく開けた口から、熱く獰猛な息が吐かれて、組み敷いた足の下でぶるりと女の身体が震えたのが分かった。
突如、首にフラウレティアが抱きついて、そのまま引き寄せられた。
覆い被さるようにされて、フラウレティアの胸に閉じ込められる。
「ごめんなさい! 傷付けるつもりじゃありません! 驚いただけなんです!」
フラウレティアの必死の声が耳の側で聞こえて、ようやくアッシュは我に返った。
床にペタンと座り込み、ぎゅうぎゅうと力いっぱいアッシュの首を抱いて、「ごめんなさい」と繰り返すフラウレティアに、アッシュはどうしようもなく後悔して脱力した。
魔法を掛け忘れたまま人形を現し、フラウレティアと話しているところを、誰かが扉の隙間から窺っていることに気付いて、焦って飛び掛かってしまった。
一体何をしているのか。
もしも人に牙を立てていたら、従魔でないことがバレてしまうところだったのに。
首を何とか動かして視線を上げれば、副官のアイゼルが長剣の柄を握っている腕を、ディードが掴んでいる。
フラウレティアと共に制止の声を上げたのは、ディードがアイゼルを止めるためだったのだろう。
ディードと目が合って、アッシュはクウと小さく喉を鳴らした。
敵意がない事と、アッシュの後悔を理解したらしく、アイゼルの手を止めながらも、僅かに警戒を滲ませていたディードが息を吐いた。
そしてその後ろで、倒れていた女魔術士がようやく上体を起こした。
さぞ血の気が引いているのだろうと思ったら、魔術士は上気した頬に、褐色の目を輝かせてアッシュを見つめた。
「すごい! すごい体験をしてしまった!」
その興奮した語調に、謝っていたフラウレティアも思わず目を瞬く。
ディードはクッと喉の奥で笑い、アイゼルは剣の柄からようやく手を離して、前髪の垂れた額に手をやって、苦々しく彼女の名を呼んだ。
「レンベーレ!」
そろそろと肩越しに振り向いたフラウレティアに、レンベーレと呼ばれた女魔術士は、ペコリと頭を下げた。
太い綱のように編まれた髪が、重そうに揺れる。
「あー……、覗こうとした私が悪い。驚かせてごめんなさい」
顔を上げて、彼女は赤い唇でにっこり笑った。
「彼女はレンベーレ。アンバーク領の魔術士だ」
フラウレティアとアッシュは、ディードの執務室に移動して、改めてレンベーレを紹介された。
「よろしくね」
レンベーレは目の端に小じわを刻んで、にっこりと笑う。
「魔獣を連れた君が、人間社会をどう知ることが出来るか、魔術士である彼女に相談していたんだ。それで、君と少し話が出来ないかと思って部屋を訪ねたんだが。……あんなことになって、すまなかった」
ディードがフラウレティアとアッシュを見つめる。
ディードが、自分の今後を考えてくれていたのだと知って、フラウレティアは驚いて見つめ返した。
アッシュは、ソファーに座っているフラウレティアの左肩で大人しくしている。
警戒の消えていないアイゼルの視線が痛く、フラウレティアの髪に鼻先を突っ込んでいた。
ソファーに座ったフラウレティアの前に、レンベーレが入れたお茶が置かれた。
今夜は従僕のエナはいないらしい。
お茶を配り終えたレンベーレは、躊躇せずにフラウレティアの左隣に座った。
さっき肩を齧られそうになったというのに、少しも怯えた様子はない。
その反応に、フラウレティアの方が驚いた。
「あの……、さっきは本当にすみません。どこか痛めたりしませんでしたか?」
アッシュの牙は止まったが、その前に引き倒してしまった。
申し訳なく思って言ったフラウレティアに、レンベーレは赤い唇を大きく笑みの形にしてみせる。
「大丈夫よ。言ったでしょ、覗こうとした私が悪かったの。行儀悪いことしてごめんなさいね」
レンベーレはひらひらと手を振る。
「……でも、おかげで貴重な体験をしてしまったわ」
レンベーレは褐色の瞳をキラキラと輝かせて、目線を合わせないアッシュを見る。
うっとりとした視線が、アッシュの頭から尻尾の先まで舐めると、レンベーレはどこか興奮した様子で口を開いた。
「伝説の竜人に組み敷かれるなんて、こんな体験二度と出来ないかもしれないわ」




