面影を重ねて
フラウレティアとアッシュが医務室を出たのは、夕の鐘が鳴って半刻は経ってからだった。
火の季節は、日の入りの鐘が鳴るまで、外は十分に明るい。
日中より少し気温が下がってきたので、演習場では兵士達の訓練が続いているようだった。
フラウレティアが演習場に向かうと思ったのか、左肩に乗ったアッシュが、グイと頭で頬を押した。
まるで、『もう行くな』と言っているようだ。
「行かないよ。お腹空いたもの」
フラウレティアは軽く笑ってアッシュの鬣を撫でる。
もし、また兵士達に微妙な表情を向けられたらと思うと、今日もう一度行こうという気にはなれなかった。
「食堂に行こう」
言って歩き出した時、アッシュが警戒するように身体を強張らせた。
「アッシュ?」
左肩を向くと、アッシュは深紅の瞳を鋭く光らせて、本館の上の方を見つめている。
フラウレティアもつられてそちらを向いた。
東と西の本館を繋ぐ四階の渡り廊下から、紺色の魔術士のローブを着た人間が、こちらを見ていた。
赤褐色の長い髪を編んで、前に垂らしている。
女性なのだろうか。
魔術士がこちらに向かってひらひらと手を振るので、ペコリと頭を下げて返すと、彼女も小さく頷いて、東本館の方へ歩いて行った。
「……魔術士だわ。初めて見た」
フラウレティアは呟いた。
過去、フルブレスカ魔法皇国で魔竜が召喚され、世界は混沌の時代に入った。
大陸中の国々が、魔竜を倒す為、又は魔竜を魔界に戻す為に力を尽くさざるを得なかったが、世界の中心であった皇国が事実上消滅した為、国同士の連携は上手くいかず、対応の多くは後手に回る。
魔竜は眼前に広がる世界を思うままに飲み込み、破壊し、結果、多くの国々が滅び、多くの人々が死んだ。
魔竜の出現から三十年余り経ち、勇者アルス率いる種族混合の一団が、大陸北西のエプリーダ聖堂の建つ崖下に魔竜を封印することに成功する。
その後、勇者を王に据えて建国されたのが、フルデルデ王国と魔の森を挟んだ隣、英雄王の国ゴルタナだった。
魔竜の出現で、この世界はそれ以前と大きく変わった。
魔竜の強大で醜悪な魔力の影響で、精霊達の均衡が崩れ、世界の魔力は不安定になったと言われている。
世界のあちこちで魔穴が発生しやすくなったのもその為だ。
そして、その影響か、魔術素質を持って生まれてくる人間は激減した。
精霊の光をぼんやりと見ることが出来たり、小さな魔石に魔力を充填することが出来る程度の者はそれなりに存在するが、魔術士を名乗れる程に魔術素質の高い人間は極稀になった。
フルデルデ王国でも、各領に魔術士は一人二人いるだけで、後は中央にほぼ集められていた。
渡り廊下を東本館側に渡り切って、ディードの執務室へ入って来たのは、フルデルデ王国アンバーク領の女魔術士レンベーレだ。
一本に編んだ赤褐色の髪は、髪量が多いのか、太い綱のような存在感で右肩から前に垂れている。
「あの子、随分目も良さそうですね。下からこちらをしっかり観察してましたよ」
レンベーレは、魔術の発動体である金の指輪を嵌めた右手を、ひらひらと振る。
「手を振ったら、挨拶を返してくれました。素直な反応ですね」
真っ赤な唇をニッと笑みの形にして、レンベーレは楽しそうにディードを見た。
執務机の上を片して終わったディードが、軽く頷く。
「ああ。生い立ちが少々特殊ではあるようだが、普通の娘だ」
ソファーに座ったレンベーレの前にお茶を置こうとしていたエナが、ピクリとした。
お茶のカップがカチャリと音を立てる。
「『普通の娘』だってさ、エナ」
レンベーレがエナの顔を覗き込む。
髪より濃い褐色の目の端に小じわはあるが、まだまだ若く見える美しい魔術士は、面白がっているように笑っている。
エナが今日の昼間に、フラウレティアに対して『普通じゃない』と言ったのを、ちょうど通り掛かった副官のアイゼルが見ていた。
執務室まで昼食を運んでから、ディードとレンベーレの目の前でアイゼルから小言を言われて、エナの機嫌はいまひとつ良くない。
昨年十六歳の成人を迎えたばかりのエナには、不平不満を他人に悟られず胸の内に収めることが、まだ難しいらしい。
「……でも、三階から飛んで平気なんて、普通じゃないです」
不満の滲む調子で呟くエナに、レンベーレはくくっと笑い、ディードは小さく溜め息をつく。
「確かに、そこだけ見れば他とは違う。だが、この数日間を見る限り、彼女は裏表なく、素直で優しい普通の女の子だと思う。違うか、エナ?」
でも、と口を開きかけたエナだったが、上手く言葉に出来なくて、そのまま頭を下げて退室した。
「思った以上に、彼女に良い評価をお持ちなんですね」
お茶のカップを持ち上げて、レンベーレはソファーから上目にディードを見た。
「そうだな。……好感を持っているよ」
執務机から離れて、レンベーレの向かい側に座りながら、ディードは小さく笑う。
成り行きで砦に留め置いたが、翼竜を連れた少女の周りで何かあってはいけないと、ずっと気にして影から様子を見てきたし、医務室や厨房、兵士達からも、それぞれ報告を上げてもらっていた。
そして、真っ直ぐで明るく、前向きなフラウレティアの気質に好感を持った。
人間の集団の中に入り、不安や疑問を感じながらも、彼女なりに多くを知り、馴染もうと努力している。
新しい事を知る度、誰かと交わる度に、嬉しそうに銅色の瞳を輝かせる、あの少女らしい快活な笑顔に惹かれる。
何かを思い出すように目を伏せ、黙ってしまったディードを見て、レンベーレは呟く。
「……アンナが生きてたら、ちょうどあの位の歳か……」
「レン!」
後ろに控えていたアイゼルが咎めるような声を出したので、レンベーレは真っ赤な唇を軽く歪めてカップを置いた。
いいんだ、というように、ディードは軽く首を振った。
「……そうだな。正直、フラウレティアを見ていると、何度も想像してしまうよ。『アンナが生きていたら、こんな風に走ったかもしれない。こんな風に笑ったかもしれない』とな」
ディードは、執務机の上を見る。
そこには、掌大の小さな肖像画が立ててあった。
髪を結い上げて柔らかく微笑んだ女性が、ディードと同じ茶味の強い金髪の赤ん坊を抱いている。
亡くなった妻と娘だ。
ディードは気遣うような表情のアイゼルを見上げ、自嘲気味に笑う。
「フラウレティアがアンナではないと分かってる。だが、彼女がこれから先のことで困っているのなら、何か手助けしてやりたいと思うんだ」
フラウレティアはまだ未成人で、生い立ちについて隠していることがある。
レンベーレが再びカップを持ち上げる。
受け皿の側には、ドワーフの村に調査に行った者からの報告資料が置かれてあった。
「まずは、彼女と話してみないといけませんね」
レンベーレの一言に、ディードとアイゼルが頷いた。




