戻って来た翼竜
フラウレティアは空中で身体を回転させ、着地と同時に地面を転がって衝撃を逃がした。
立ち上がると同時によろけたが、数歩進むとすぐに持ち直して、演習場に向けて駆け出す。
階段の踊り場の窓から、下を覗いていたエナが、フラウレティアが駆け出したのを見て、脱力して踊り場に座り込んだ。
まさか、ここから飛び下りるなんて。
ほんの少しの躊躇いもなかった彼女の後ろ姿を思い出し、足元からぶるぶると震えが上がってきた。
そして、なぜこの高さから飛んで、無事でいられたのかという疑問が頭を過ぎり、不気味さと恐ろしさに、余計に震えた。
ディードは執務室の窓枠から身を乗り出し、今見た光景に強く眉を寄せた。
一歩下がり、口を押さえる。
「は……、何だ、今のは……」
心臓が、ザクザクと耳に心音を聞かせる。
先程、執務机で事務作業をしていたら、窓の外から怒声のようなものが聞こえた。
ディードはただ事ではない雰囲気を感じ、急いで窓から外を眺めた。
執務室から見える演習場の中心で、翼を持つ小さな魔獣が、兵士達に取り囲まれている。
遠目ではあるが、あれはおそらくアッシュだろうと分かった。
魔の森から出てくる魔獣と、何度も命のやり取りをしたことがある兵士達だ。
人数が集まれば、いくら相手が翼竜といっても、あの小型ならば倒せるだろう。
ディードは、止めるために急いで演習場へ下りようと思った。
その時、渡り廊下で繋がった隣の建物の窓から、ひらりと飛び降りた少女が見えたのだった。
ディードは口を押さえていた手を下ろし、ゴクリと喉を鳴らした。
あれは、フラウレティアだった。
事故ではない。
故意に自分で飛び降りたのだ。
飛び降りても大丈夫だと、確信して飛んだのだ。
そしてその通り、彼女は見たところ怪我もなく、勢いよく走って演習場に向かった。
普通の人間であれば、決して出来ない。
背筋がぞわりとするが、それを耐えてディードは深呼吸した。
とにかく、ここでじっと見ている訳にはいかない。
少女の後ろ姿が、演習場の人だかりの中に消えたのを見て、ディードは強張っていた足を動かした。
フラウレティアは全力で走った。
開けた演習場に走り込み、円形に集まって、中心に集中している兵士の間や足元を、するりするりと縫うように素早く進んだ。
兵士の誰もが、猫のような小さな獣が走り抜けたのかと思った。
そうして、ただの一人も少女を抑えることが出来ないまま、気付いた時には、兵士に囲まれた翼竜に、フラウレティアは飛び付いていた。
「アッシュ!」
フラウレティアは、大勢の人に見られているのも忘れて、演習場のど真ん中でアッシュを抱き締めた。
アッシュはフラウレティアが飛び付いて来たので、威嚇の為に半分広げていた翼を咄嗟に畳んだ。
そのおかげで、全く身動きが取れない格好で彼女の腕に収まってしまった。
不格好に長い首だけが、フラウレティアの肩から生えたように伸び、身体にギュッと力を込められて、ウギュゥとおかしな声が出る。
兵士達は、突然飛び出して翼竜を抱き締めたフラウレティアに、度肝を抜かれた。
しかし、さすがに魔獣と戦い慣れている者達だ。
すぐに警戒は解かず、武器は構えたままだった。
フラウレティアは、アッシュの硬く冷ややかな皮膚の感触に、心の底から安堵した。
幼い頃から必ず側にあった、この世の何よりも安らぐ感触だ。
ようやく落ち着いて目を開けると、足元に見覚えのある、小さな皮の鞄が落ちているのに気付いた。
使い込まれてクタッとした、黒茶の鞄。
それは、魔穴に巻き込まれた時に失くしてしまった、フラウレティアの腰掛けの鞄だった。
長年愛用していて、日常的に使用する、様々な物が入っている。
フラウレティアは銅色の目を見張って、アッシュの身体を離した。
「これって……。もしかしてアッシュ、これを探しに行ってたの?」
アッシュはフフンと鼻を鳴らし、見つけて来たことを褒めろと言わんばかりに、小さな胸を張った。
フラウレティアは、ポカと口を開けた後、はっきりとした眉を寄せた。
「馬鹿っ!」
てっきり褒めてもらえると思っていたアッシュが、ビクリと身体を震わせた。
「黙って行って、どれだけ心配したと思ってるのっ! しかも、皆をこんなに驚かせて!」
フラウレティアの剣幕に、アッシュは身体を低くして二歩下がる。
自然と、濃い灰色の短い鬣がペタリと倒れ、長い尻尾が身体の下に入った。
見上げる深紅の瞳が、戸惑いの色を見せる。
「皆に謝って!」
言ったフラウレティアが、振り返って武器を構えた兵士達を見回す。
「アッシュが驚かせてごめんなさい。でも、何か危害を加えるようなことは、絶対にしないの。本当です」
後ろで固まっているアッシュを、フラウレティアは睨む。
「ほら、アッシュも謝るのっ!」
再びビクリと身体を震わせて、アッシュは鼻先を演習場の地面に僅かにつけた。
目だけは不満気な色をしていたが、フラウレティアが睨めつけると、観念して閉じた。
四階の執務室から、急いで演習場に降りて来たディードは、緊張の面持ちで人混みを目指した。
下手をしたら、怪我人が出ているかもしれないと思い、医務室に使いも出しておいた。
しかし、分け入った兵士達には、上から見たときのような緊張感は殆どなく、ざわめきや戸惑いの声に加え、前の方では笑い声まで聞こえた。
バサリ、と風を孕む音と共に、翼竜の影が頭上を通った。
反射的に、皆がその影を視線で追う。
アッシュは演習場から少し離れた、医務室の二階建て建物の屋上に滑り込んだ。
翼を畳んだのか、下からだと全く姿が見えなくなる。
「こらーっ! 逃げるなー!」
人混みの真ん中で、両手を天に向けて突き出し、アッシュに叫んでいるフラウレティアがいる。
「ディード様」
ディードに気付いた第2部隊長のナリスが、後頭部で括った鳶色の髪を揺らし、側に寄った。
「これはどういう状況だ?」
困惑して聞いたディードに、ナリスもまた、その整った顔に戸惑いの色を乗せて答える。
「あの少女が、兵士達を驚かせた翼竜に謝らせたのです」
「謝らせた?」
「はい。……頭を下げさせて」
ディードは思わず口を開けた。
小型とはいえ、魔獣の頂点に当たる竜である。
それをまるで、飼い犬の扱いだ。
どうやらそれで、兵士達は毒気を抜かれてしまったらしい。
囲まれて武器を向けられても、アッシュが警戒と威嚇だけで、全く動かなかったことも良かったようだ。
未だ不満気な兵士も多く見られたが、殆どはフラウレティアに友好的な態度になっていた。
ディードは改めてフラウレティアを見た。
周りの兵士達に、申し訳なさそうな笑顔を見せているフラウレティアは、特別変わった少女にも見えない。
さっき上から見た、あの超人的な行為は、夢だったのではないかという気さえした。
そんなことを考えながら目線を逸らした先に、人混みを外れて一人、従僕のエナが、フラウレティアを見つめて立っているのが見えた。
彼の顔色は悪く、細い目は恐れを含み、気味の悪い異形の物を見る目付きだ。
ディードはゴクリと唾を飲んだ。
あれはやはり、夢ではない。
エナに近付くと、優しく肩を叩く。
「お前も見たのだな」
ビクリと大きく身体を震わせ、エナが驚いてディードを見返す。
「まだ誰にも言うな」
言ったとしても、簡単には信じて貰えない内容だ。
エナは顔色の悪いまま、ぎこちなく頷いた。