温もり
呼吸を繰り返すフラウレティアの耳に、ザクザクとした自分の心音以外に、ようやく外の虫の声が届き始めた。
涼やかなその音色で、一層落ち着きを取り戻す。
呼吸が落ち着き、頭痛も治まってきたようだ。
フラウレティアはもたれかかっていたハドシュの太い腕から身を起こした。
「……ありがとう、ハドシュ」
動くとまだ脈打つようにこめかみが痛み、軽く顔をしかめた。
「魔術士の存在は掴めたか?」
ハドシュの問い掛けに、フラウレティアは弾かれたように顔を上げた。
ベッドの側に立ったハドシュはいつも通りで、のっぺりとした表情の乏しい顔で見下ろしていた。
「私が何をしていたのか知ってるの?」
「大方、“共鳴”の応用で精霊の視界を得ようとしたのだろう」
「……どうして分かったの?」
「精霊の動きがいつもと違った」
「え……」
フラウレティアは驚いて目を見開いた。
どちらかが強く引き摺られるような共鳴でなければ、精霊の動きが大きく変わることはないはずだ。
魔術素質があっても、人間には精霊はよく見えないものだし、今この屋敷にハドシュがいることは分かっていたが、失敗さえしなければ気付かれることもないだろうと思っていたのだ。
「人間よりも、竜人の方が精霊の動きには遥かに敏感だ。身の内と外の魔力、共に感じているのが常だからな。目で感じるのではなく、肌で感じると言ってもいい」
ハドシュは戸惑うようなフラウレティアの顔を見詰める。
「……その分だと、お前は人間よりは魔力を感じることが出来ても、竜人程には感じられぬということだな」
フラウレティアは精霊と共鳴が出来るが為に、魔力を見ることも感じることも十分出来ていると思っている。
しかし、この様子では、竜人の感覚程に鋭いものではないのだろう。
しかし、ハドシュにすら、フラウレティアの感覚や能力は完全に理解できない。
人間とも違い、竜人とも違う。
フラウレティアにしか分からない感覚。
精霊の中に、感情のようなものを見つけるというのだから、ハドシュには理解出来るはずもない。
ハドシュは軽く息を吐いた。
「それで、魔術士の存在は掴めたのか?」
「王宮だと思う建物の奥に、人間ではあり得ない魔力を持つものを見たわ」
フラウレティアが神妙な顔付きで拳を握る。
「姿をはっきり見たわけじゃないけど、……あれが、きっとそうなんだと思う」
規模は違うが、見慣れた竜人と似た魔力だったように感じた。
「お前がそう思うのなら、きっとそうだろう。フルデルデ王宮の中に、始祖はいる」
ハドシュは確信した。
思えば、魔竜出現以前に始祖七人が生きていた頃、彼等はフルブレスカ魔法皇国の城から外へは出なかった。
ハドシュ達を手足のように使い、皇国の最奥から世界を支配していたのだ。
姿を表し、若い身体を手に入れた今、フルデルデ王宮に座して動かないのも頷ける。
どんな目的を持っているのであれ、おそらく始祖は自らが動くのではなく、周りの者を使ってそれを達成しようとしているのだろう。
それが、始祖として当然の在り方だからだ。
黙ってしまったハドシュを見上げ、フラウレティアはおずおずと口を開いた。
「あの、……咎めないの?」
「何をだ」
「えっと、一人で勝手なことをしたから……」
無謀なことをしたつもりではなかったが、実際には限界まで息を詰めて浅い共鳴をしていたのだから、それを咎められれば言い訳のしようもない。
だがハドシュは、微かに眉を動かしただけだった。
「お前が待ちきれずに自ら動くことなど、今に始まったことではない」
「そ、それは……」
幼い頃のフラウレティアは、人間には無理だと思えるようなことも、やってみなくては気が済まない子供だった。
時には、側にいたアッシュよりも先に動こうとしていた。
育児に手は出さないと言っていたハルミアンが、見かねて指導役を買って出たくらいだ。
今考えればそれは、フラウレティアがドルゴールで唯一人の人間だったからなのかもしれない。
ハドシュ達は人間を知っているが、フラウレティアは竜人しか知らない。
人間の能力でどこまでが出来、どこからが無理なのか、分かるはずがなかったのだ。
バツが悪そうに腿の上で両手を揉むフラウレティアを、ハドシュは静かに見下ろす。
「やはり、お前をドルゴールに置いておくべきではなかった」
フラウレティアが息を呑む。
サァと血の気が引き、周囲の温度も下がったように感じた。
ドルゴールで生かされたフラウレティアにとって、その言葉は“お前は生きるべきではなかった”と言われたに等しく思えた。
「……私が、アッシュに、ドルゴールに、災禍を呼んでしまったから……?」
震えるようにそう口にする。
しかし、ハドシュの反応は予想とは違うものだった。
「災禍? 違うな。円卓様が生きていたのなら、どんな形であれ、いずれはドルゴールと接触しようとしたはずだ。今回のことは、禍根を残したまま生きてきた竜人族に起こるべくして起こったもの」
始祖が本当に全滅したのか、確認を怠った。
いや、あの時は確認しようとしても出来なかったのではあるが、その後、始祖を失った絶望の中で、何の手も打たなかったのは事実だ。
「……巻き込まれたのは、お前の方だ。もっと早く、人間の世界に戻すべきだった」
幼い頃から人間の中にいれば、少し違ったところがあっても、今ほど特異な者にはならなかったかもしれない。
ここにいるのは、竜人に拾われ、そのまま育てられたが為に、人生を狂わされた少女だ。
見下ろすハドシュの表情は少しも変わらない。
しかし、血のような瞳には深い影があり、フラウレティアの胸を突いた。
「もしかして、心配してくれているの、ハドシュ……」
「心配などしていない。お前もアッシュも、もう子供ではない」
フラウレティアは立ち上がった。
アッシュ程には感情が読めないが、ハドシュの言葉に、向けられる瞳に、じっとしていられない何かを感じて手を伸ばす。
突然立ち上がったフラウレティアに抱きつかれて、ハドシュは身体を強張らせた。
竜人族は、人間のように日常的には触れ合わない。
フラウレティアに触れるのも勿論、頭や腕といった部分的なもので、こんな風に身体を密着させる行為は初めてのことだった。
「フラウレティア」
「ごめんなさい、こういうの好きじゃないって分かってる。でも、でもね……」
フラウレティアは腕に力を込めた。
「私、ドルゴールで生きてこられて、良かったよ。私は人間だけど、あそこで生かされたことに感謝してる。……ありがとう、父様……」
本人を前に使ったことのない呼称で、フラウレティアはハドシュに心からの感謝を伝える。
触れ合うフラウレティアの身体は、竜人のものと違い、柔らかく、そして温かい。
ハドシュは初めて知るその感触に戸惑い、押し離すことが出来ないまま、しかし抱き返すことも出来ず、立ち尽くしていたのだった。




