ひとり残されて
日の出の鐘が鳴って、しばらくした頃。
フラウレティアの部屋の扉がノックされた。
顔を出したのはマーサだ。
「おはよう。起きてたかい?……おやおや、どうしたんだい?」
朝から元気な笑顔で入ってきたマーサだったが、フラウレティアがしょんぼりと情けない顔で、ベッドに腰掛けているのを見て、ドスドスと早足に近付いて来た。
フラウレティアは、マーサを見上げて力なく眉を下げた。
「アッシュが出ていってしまったの……」
「アッシュが?」
そういえば、あの存在感のある小さな翼竜がいない。
フラウレティアが眠っていた時のように、ベッドの下に陣取っているのかと思ったが、そうではないらしい。
「出て行ったって、一体どこにさ」
マーサが太い腰に手を当てて聞いた。
「分かりません。故郷に帰ってしまったのかも……」
人間世界に興味を示したフラウレティアに呆れて、一人だけドルゴールに帰ってしまったのかもしれない。
フラウレティアは、両方の拳を膝の上で握る。
物心ついた頃から、アッシュはいつも一緒にいた。
一人で何もできない、弱い人間の赤ん坊を、ずっと守り、世話を焼いてくれていてのはアッシュだ。
アッシュと、アッシュの両親がフラウレティアを育て、エルフのハルミアンが彼女に多くを学ばせた。
他の竜人族は、フラウレティアが一人前に動き、学び、世の道理をわきまえるまでは、彼女の事を相手にしなかった。
アッシュがいたから、生きてこれたのだ。
魔穴に巻き込まれた時も、アッシュが抱きとめてくれていたから、無傷だった。
「どうしよう……」
フラウレティアは、突然世界で一人ぼっちになってしまった気分だった。
マーサは腰に手を当てたまま、小さくなっているフラウレティアを見下ろしていたが、一つ息を吐いて、彼女の両腕を持って立たせた。
マーサは、驚いて目を見張るフラウレティアの背中を、バシバシと叩く。
「だーいじょうぶだよ。何で出ていったか知らないけど、きっとあの子ならすぐ帰ってくるよ」
言って、フラウレティアの筋張った腕を持つと、グイグイ引っ張って部屋を出ていく。
フラウレティアは、マーサに部屋から引っ張りだされながら、目が回りそうになっていた。
人間の暮らす世界に出てきて、少しずつその雰囲気を知ろうと思っていた矢先、マーサは有無を言わさぬ勢いで彼女に触れてきた。
竜人族と全く違う、温かで柔らかい皮膚の感触に、心の奥底で懐かしいような気持ちが湧き、フラウレティアは戸惑う。
そして、アッシュを“あの子”呼ばわりしたマーサが、物凄く頼もしく見えた。
マーサに引かれるままに、フラウレティアは階段を降り、一階の廊下を別館に向けて歩く。
前を行くマーサは、その分厚い手で彼女の手をしっかりと握ったままだ。
フラウレティアは初めて繋いだ手に、ずっとドキドキしっ放しだった。
ドキドキしているフラウレティアを引っ張って、昨日兵士達と揉めた所を曲がり、マーサは食堂に入る。
広い食堂は、大きな窓から陽光が入って明るかった。
木造の大きなテーブルが何台もあって、背もたれのない椅子が所狭しと並び、朝食を食べる兵士が多く座っている。
フラウレティアを見て顔色を変えるのは、昨日攻撃的だった兵士だろうか。
しかし、マーサはそんな彼等を全く気にする様子はなく、横を素通りすると厨房に入った。
厨房に入ると、温かな湯気と、香ばしい香りが漂っていた。
煮炊きする匂いと雰囲気に、フラウレティアは、ほっとする。
マーサはやっとフラウレティアの手を離すと、厨房の隅にある小さな机の前に椅子を引っ張って来て、彼女を座らせた。
続けて、湯気の立つスープとパン、そしてよく煮込まれた肉が目の前に置かれる。
「煮込みは昨日の残り物だけどね。アンタ細っこいんだから、朝からしっかり食べなきゃ」
フラウレティアが面食らっているうちに、マーサは彼女にスプーンを握らせる。
「とにかく食べな。お腹が空いてると、悪い事ばかり考えてしまうもんさ」
それでも戸惑っているフラウレティアに、マーサは笑い掛ける。
「アンタが寝ている間、あんなに心配してちっとも離れなかったんだよ、アッシュ。絶対帰ってくるって! その時アンタがヘロヘロじゃあ駄目だろ。食べな」
フラウレティアは、目の前の湯気の立つ料理を見る。
その香りに、とてもお腹が空いていたのだと気付いて、スプーンをスープに差し入れた。
ようやく食べ始めたフラウレティアに安堵し、マーサは仕込みの為に、大きな肉の塊を出してきた。
スープを口に運びながら、フラウレティアはマーサや厨房で働く人々を見る。
皆自分の持ち場で、流れるように次々と仕事をこなしていく。
塊の肉をドカドカと切っていくマーサの腕は、他の人の腕よりもみっちりと太い。
アッシュを二度も“あの子”呼ばわりした位だ。
もしかしたら、厨房で料理をするだけでなく、剣も振るう猛者なのかもしれない。
「マーサさんって、実は物凄く強い兵士とかなんですか?」
「はあ?」
フラウレティアの質問に、マーサが呆れた顔をし、厨房の誰もが吹いた。
「あれ? 違いましたか?」
「こんな細腕のオバちゃん兵士がいるわけないだろう」
マーサが細腕だったら、ここにいる皆は極細腕だ。
「バカなこと言ってないで、さっさと食べちゃって。帰ってきたら、アッシュにもご飯食べさせなきゃ。アッシュは何食べるんだい?」
「何でも食べます。特に、肉が好き」
「何の肉? 生で齧り付くのかい?」
マーサが手元の塊肉を指す。
「生も食べますけど、焼いたり煮たりした方が……、んっ! これ、美味しい!」
フラウレティアが煮込み肉を口に入れて、銅色の目を輝かせた。
マーサが得意げに胸を張る。
「そりゃあ、アタシの得意料理だもん」
フラウレティアは、スプーンで肉をすくい上げて、再び口に入れようとして、止める。
「……アッシュに置いておいてもいいですか?」
こんなに美味しい料理、きっとアッシュも喜ぶに違いない。
フラウレティアが上目にマーサを見ると、彼女は何とも言えない顔でこちらを見ていた。
「……フラウレティア。それはアンタが全部食べな。今から新しいの仕込むから、それをアッシュに食べさせよう。手伝ってくれるかい?」
マーサが再び塊肉に包丁を入れた。
フラウレティアは頬を上気させて頷いた。