渦の中で
フルデルデ王宮奥の一室。
以前は光を遮るように厚いカーテンで覆われていた室内には、最近では少しだけ陽光が差し込んでいた。
とはいえ、他の居室に比べればずっと薄暗くはあったが、それでも、重苦しい濃灰色のローブを着た男は、深く被っていたフードを脱いで光をその身に浴びていた。
男は、フルデルデ女王付きの魔術士。
表向きはザムリと名乗る中年の男であるが、その実は、竜人の要であった始祖七人の内の一人、ザムリドゥアである。
そして、今弱い光を浴びるその身体は、アッシュのものだった。
深く腰掛けた椅子の肘掛けに、大きな爪先を打ち付けていたザムリドゥアは、閉じていた目を開ける。
そして、その手を持ち上げて、握って開いてを繰り返した。
いくらか繰り返した後、突然開いた手の平の上に小さな火球が表れ、高速で回転して弾けると火花を散らした。
すぐさまどこからか氷の粒が集まり、握り拳大の氷塊になると、上から溶けて蒸発する。
次には細く稲妻が空気を裂き、手の平に向けて落ちると、小さな渦となって収縮し、目を刺すような光を室内に広げて消えた。
〘ふむ、抵抗はない〙
ザムリドゥアは、深紅の瞳を細めた。
“魂移し”によって、ザムリドゥアの持つ力は全てこの身体に移った。
アッシュが、この年齢の竜人としてはまだ未熟な者であったことは想定外で、移った当初は思うように魔力操作出来なかった。
しかし、今は自在に扱える。
“魂移し”は、当然無事に終えたのだ。
眺めていた手をぐっと握ると、ザムリドゥアは微かに眉根を寄せた。
深く息を吸い込んで再び目を閉じ、己の奥深くに意識を向けた。
赤く、黒い、渦が巻く。
ザクリ、ザクリと、重く濁った音を響かせて、その渦はアッシュを飲み込んでいた。
全身を押し潰すような強い圧迫感。
それと共に、押し出されるような感覚と、強く引かれるような感覚が繰り返される。
それは、アンバーク旧領主館の魔穴に入った時の感覚によく似ていた。
渦に圧迫される中、アッシュは四肢はおろか、指先を動かすことも出来ないでいる。
それでも、必死に藻掻いてその渦から出ようとしていた。
いや、手足や頭があると言って良いものか。
ただアッシュという意識が、自身の存在を見失わずにいる為に、辛うじて身体があると感じているだけなのかもしれない。
言ってみれば、ここは精神の世界だからだ。
〘まだ消えぬか〙
ザラリとした声が聞こえた。
その声にアッシュは総毛立ちながらも、前を睨み付けた。
赤黒い渦の中には何も見えない。
しかし、そこに声の主がいると感じる。
アッシュを絡め取り、ここへ押し込めた者だ。
〘出せ! 俺を返せ!〙
アッシュは喰らいつくように声を出したが、声の主の気配は、ゾロリとアッシュの身体を這う。
アッシュは奥歯を食いしばるようにして耐えた。
ここに押し込められてから、その気配はアッシュの身体の表皮内側を舐め取るようにして、アッシュの持てるものを余さず奪っていく。
身体や魔力だけではなく、記憶や知識もだ。
ドルゴールの風景、竜人達の生活。
そして、大事なフラウレティアとの時間も。
心の奥底にしまってある大事な思い出まで、容赦なく荒らし、暴いていく。
身が捻れる程悔しく、煮える程に腹立たしい。
それなのに、アッシュは抵抗らしい抵抗が出来ないまま、ここに絡め取られていた。
未だ瞳の光を失わないアッシュが、フーッ、フーッと荒く息を吐く。
〘……無駄だ〙
声の主は言い捨てた。
アッシュがどれだけ抵抗しようとしても、その内に消えるだろうと思った。
この状況で、耐え続けられるわけがないのだから。
それで、懲りずに睨めつけるアッシュを確認するだけして、去った。
しかし、ザムリドゥアの思惑通りとはいかず、アッシュは耐え続けている。
アッシュには、この声の主がどういう者なのか、今もよく理解できていない。
声の主は奪い取るばかりで、アッシュが何と訴え掛けても応えはしないからだ。
応えなくても、もしもアッシュが魔竜出現以前から生きている竜人であったなら、始祖であると分かっただろう。
そして、染み付いた過去の生き方から、服従すべき相手だと認識したに違いない。
しかし、新世代であるアッシュにはそれが分からなかった。
それで、ひたすら怒りを軸に抵抗し続けている。
アッシュは、フラウレティアの顔を思い浮かべる。
浮かんだのは、驚きに目を見張り、涙を浮かべてアッシュを見つめる、あの屋根の上での表情だ。
あんな顔をさせるなんて……!
アッシュはギチと牙を鳴らす。
どうしてこんなことになったのかは分からない。
けれども、決してこのまま飲み込まれて消えたりはしない。
必ず戻り、フラウレティアに会わなければ。
あれがアッシュの仕業ではなくても、フラウレティアは傷付いたに違いないのだから。
〘フラウ……〙
アッシュは意識を左手に集中した。
アッシュを支えているのは、フラウレティアと繋いだ左手の感触だ。
旧領主館の魔穴で、決して離さないと誓った、彼女の手。
この赤黒い渦の中が、あの時の魔穴の感覚に似ていることが幸いした。
あの時のフラウレティアの手が、今のアッシュの意識を支えているのだ。
〘フラウ、約束だ、絶対に、離さない……〙
誰にも届かない声で、アッシュは呟いていた。
翌日の朝食後、フラウレティアはレンベーレと“慣らし”の続きを行う為に、奥の部屋に入った。
先に室内で待っていたレンベーレが、ソファーに座ったままにこりと笑って「おはよう」と挨拶する。
フラウレティアは、顔を合わせたら目が腫れているのに気付かれて、昨夜たくさん泣いたことがバレてしまうのではないかとドキドキしていた。
しかし、レンベーレはいつも通りの反応で、壁際に立つハドシュも特に何も言わないので、ホッとした。
実際はしっかり見られていたわけだが、そんなことは知らないフラウレティアは、ディードの気遣いでよく瞼を冷やしておいたのが良かったのだと思った。
そして、絶対に泣いてはいけないと力んでいた心が少しだけ緩んだからか、今朝の目覚めは、ここ最近では一番スッキリしていた。
「さあ。今日もやってみましょうか」
言ってレンベーレが立ち上がった時、部屋の扉がノックされた。
扉を開いたのは、この屋敷の執事を務める男だ。
彼は、フラウレティア達がここに来てから初めて見るような困惑顔で、来客のあったことを告げた。
「その……、王族の方がお忍びで訪問なさり、お嬢様にお会いしたいと……」




