眠れない夜に 1
深夜、フラウレティアは悪夢を見て飛び起きた。
ザクザクと耳に響く心音と、荒くなった呼吸が混じり合う。
身の内で乱れる魔力を感じながら、ベッドの上で無意識に手の平を滑らせ、そこにいつもいるはずの鱗肌を求める。
しかし、どれだけ手の平を滑らせても、求める手触りはそこになかった。
滲みそうになる涙を堪えるため、フラウレティアはキツく瞼を閉じ、ベッドの上で顔を伏せる。
アッシュ……
名を呼べば涙を堪えられなくなりそうで、口にできなかった。
胸の奥がひどく痛む。
あの日から、フラウレティアは度々悪夢を見た。
見るのは、決まってあの屋根の上での場面だ。
いや、向けられる冷ややかな視線や容赦のない扱いは、本当にあの時のものなのか自信はない。
夢に見るアッシュは、アンバーク砦の外で見た不浄の魔獣のように、気味の悪い黒い靄が掛かっていて、竜人であることは確かだが、まるで別人のようにも見えたからだ。
しかし、それが鮮明であろうがなかろうが関係ない。
あの日のことが夢ではなく、今アッシュがここにいないことが、フラウレティアの胸を容赦なく抉った。
必死で頭から悪夢を追い出し、落ち着いてきた心音にだけ集中する。
そうやって、悪夢の夜を今までなんとか過ごしてきた。
少しずつ呼吸が整い、フラウレティアは顔を上げる。
魔力の乱れは大したことはなく、今夜はすぐに収めることが出来た。
深夜であるにもかかわらず、以前は乱れた魔力を感じたレンベーレが飛んできてくれていたことを思えば、大した進歩だ。
これも“慣らし”を始めたおかげだろう。
レンベーレとハドシュが考察した、“共鳴”の能力については、あの後改めて説明をされた。
フラウレティアにも驚きの能力であったが、しかし、誰かの意識を変えようにも、それはフラウレティア自信がそう願わなければならないし、そんなことを願おうとも思わない。
魔力制御を完璧にして、この能力を明かさなければ、今のところは問題ないように思った。
何しろ、フラウレティアの“共鳴”の能力を知る者は少ない。
今日、大凡の感覚は掴めた。
明日の一日で、更に制御力の向上を図るつもりだった。
フラウレティアは細く息を吐いて、ベッドから素足を下ろした。
火の季節が終わり、土の季節に入った今は、夜は過ごしやすい程度には気温が下がっている。
しかし、素足で触れた床は、冷たいと感じるほどでもない。
その感触が心地良く、フラウレティアは室内履きを履かず、素足のままでベッドから降りた。
外の空気が吸いたくて、掃き出し窓をそっと開いてバルコニーへ出る。
雲のない空には、丸い月が青白く輝いていた。
その位置はまだ西寄りだ。
月は年間通して真西から真東に進む為、その位置で大体の時刻が分かる。
まだ日付は変わってはいないようだった。
フラウレティアは足音なく進み出て、手摺を握り、夜気を大きく吸い込んだ。
「フラウレティア」
「……ディード様」
声のした方を見れば、隣のバルコニーに、同じように手摺を握って立つディードがいた。
隣と言っても、窓を二つ分挟んでいる距離だが。
そういえば、フラウレティアに充てがわれている部屋は、控えの間を挟んで隣がディードの部屋だった。
「眠れないのかい?」
「眠ってはいたんですけど……」
言葉を濁すフラウレティアを見て、ディードは一度視線を落とした。
夜中のフラウレティアの様子は、レンベーレから報告されている。
それだけでなく、眠る度に悪夢を見て飛び起きる夜を、ディード自身も過去に経験してきた。
今のフラウレティアが、気持ちよく眠れるはずがないことは、痛いほど理解できた。
「……眠れないなら、こっちに来て少し話すかい。温かいお茶を飲めば、少しは気分も変わるかもしれないよ」
優しく誘われた深夜のお茶に、フラウレティアは心惹かれて大きく頷いた。
ディードの部屋まで移動しようと思い、部屋の中へと足を向ける。
「フラウレティア」
呼ばれて再び顔を向ければ、ディードはこちら側の端まで移動して来る。
明るい月の光に照らされた彼の顔は、どこか企んだような笑みを浮かべていた。
「私がここで受け止めようか」
「え?」
「君なら、跳べるんじゃないか?」
ディードがフラウレティアを指差し、その指をそのまま自分の足元へと向ける。
バルコニーを跳び移れと言われたのだと分かり、フラウレティアは瞬いた。
「お嬢様はそんなことしちゃいけないんですよね?」
「まあ、一般的にはね」
いたずらっぽく肩を竦めたディードを見て、フラウレティアの胸が僅かに弾んだ。
フラウレティアは寝間着の裾を持ち上げ、サッと手摺の上に身を乗り出した。
そして、躊躇わずに踏み切る。
しばらくこんなことはしていなかったのに、足は待ってましたとばかりに、強いバネのように動いた。
受け止めるつもりであったディードだが、助走もなく当たり前のように跳んだフラウレティアに、急いで腕を広げつつも一瞬息を止めた。
フラウレティアは身体の重さを感じさせない動きで、トンと軽くディードの立つバルコニーに降りた。
ディードの腕の中には降りなかったが、手を取って立ち上がる。
その顔は、少しだけ楽しそうだった。
「久しぶりにこんなことをしました」
「そうだね。ずっとお淑やかに動くことばかり練習させられていたから、窮屈だったろう」
ディードが気遣うように言えば、フラウレティアは手を離して軽く首を振った。
「新しいことを教えてもらうのは、何でも苦じゃありません。でも、長いスカートはまとわりつくみたいでちょっと苦手です」
「やっぱりズボンとは違うものかい?」
バルコニーに設置された、優美なテーブルの方へディードが促すと、フラウレティアは再び寝間着の裾が少し上がるくらいにスカートを掴んだ。
「全然違いますよ。スカートを履いていたら、魔の森で走るなんて……」
フラウレティアは言葉を詰まらせた。
魔の森と口にすれば、アッシュとの日々がどうやっても頭を過ぎる。
首を振ってどうにかやり過ごしたいのに、スカートを握る拳にばかり力が入り、首を動かすことは出来なかった。
不意にディードに引き寄せられ、抱きしめられる。
フラウレティアは驚いて上を向こうとした。
しかし、大きな手の平に頭を抱えるようにされて、ディードの胸に額を付ける。
「アッシュの名を呼んで良いんだよ」
フラウレティアは身体を一瞬震わせた。
「フラウレティア、アッシュに会いたいと叫んだって良いんだ」