ドルゴールの娘
深夜、砦の二階の窓から、鳥が飛び立った。
人でも明かりがなければ、足元も見えない様な、月の隠れた夜だ。
しかし、目前に広がる世界の全てを見渡せているかのように、尾の長い臙脂色の鳥が闇夜を飛ぶ。
鳥は、砦から真っ直ぐ南西に飛び、闇の中に消えた。
鳥が飛んでいった先を眺めていたフラウレティアが、窓枠に凭れて小さく溜め息をついた。
明るい銅色の髪が、窓から入る風に揺れる。
「ハルミアンは何て?」
ベッドの上から、低音が響く。
「『粗忽者。阿呆。考えなし。帰ってくるなら自力で帰れ』だって」
フラウレティアが厚めの唇を突き出して、もう一度溜め息をついた。
窓辺に来ていた臙脂色の鳥は、フラウレティアの師、エルフのハルミアンの使い魔だ。
魔穴に巻き込まれ、突然行方をくらましたフラウレティアとアッシュを探していたらしい。
ベッドの上から低い笑い声がする。
フラウレティアは振り返って、笑い声の主を睨む。
「笑い過ぎよ、アッシュ」
ベッドの上には、大柄の男が裸であぐらをかいて座っている。
細身だが体格の良い筋肉質な身体は、手足が長く、背が高い。
蝋のような白い肌は、身体の所々に硬質な鱗が浮き、手足の先にいく程、濃い灰色に変わる。
人の手よりも大きなそれには、指の第二関節から、固く厚い爪が生えていた。
頭からは、爪の先と同じ濃い灰色の長い髪が重そうに垂れ下がる。
そして、フラウレティアを見ている瞳は、深紅の血の色。
彼は、人間とは異質の者。
翼竜アッシュは、竜人族だ。
「散々な言われようだな」
アッシュはベッドの上で笑う。
その声は可笑しそうだが、表情は殆ど動かない。
竜人族は、喜怒哀楽があまり顔に出ないのだ。
フラウレティアは、薄い掛け布団を引っ張って、アッシュに投げた。
「もう。少しは隠して。……あんまり大きな声で笑うと、誰かに聞かれてしまうわよ」
竜人の血肉を求めて、この国の王は、ドルゴールに兵を送り込んで来ている。
この砦の人々は、皆が皆、魔獣のアッシュを捕らえようとはしなかったが、アッシュがただの翼竜でなく竜人族だと知れたら、どんな目に合うか。
考えると恐ろしくなった。
「静音の魔法をかけてるから、大丈夫だろう」
投げられた掛け布団を身体に巻いて、アッシュが爪の先で扉を指した。
「それで、これからフラウはどうしたいんだ?」
アッシュか笑うのを止めて、真剣に聞いた。
「……分からない。どうしたらいいのかな。師匠は『帰ってくるなら自力で帰れ』と言ってたけど、『帰って来い』とは言わなかったし」
フラウレティアは唇を噛む。
大陸最南端の地ドルゴールでは、伝説の域にある竜人族が、今も実際に生きている。
フラウレティアは、竜人族に拾われ、育てられた、唯一人の人間だった。
フラウレティアの母が、産まれたばかりのフラウレティアを抱えて魔穴に巻き込まれ、魔の森に投げ出されたのは本当の話だ。
ただ、瀕死の母とフラウレティアを助けたのは、ドワーフではなく、ドルゴールに住む竜人だった。
母はすぐに亡くなったそうだが、フラウレティアはアッシュの母に乳を貰い、妹のように育てられた。
「ハルミアンの言うことなんか気にするな。エルフは、どんな時も捻くれた言い方しかしないんだ」
アッシュが言った。
無表情に見えるが、フラウレティアには、アッシュが不機嫌なのが分かる。
「でも、ここにいると、やっぱり私は人間なんだなって思うよ。人間の中に入ったのに、このまま何も考えずに帰れないよ」
砦にいる人達は、皆フラウレティアと同じ造りで、同じように喋り、同じように動いている。
自分がどんなにアッシュ達と同じでありたいと思っても、やはり竜人族ではなく、人間なのだ。
「……ハドシュは、人間が成人する16歳までに、これからどうやって生きていくか決めろって言ってた。ちょうどいいから、暫く人間の暮らしを見てみたいと思うの」
ハドシュは、フラウレティアと彼女の母親を拾った竜人で、アッシュの父親だ。
フラウレティアは、来月には15歳になる。
成人までは、一年と少しだ。
「じゃあ、人間の暮らしを見てそっちがいいと思ったら、フラウは人間の世界に行くつもりなのか?」
“戻る”と言わず、“行く”と言うあたり、アッシュが自分のことをドルゴールの仲間だと思ってくれていることが伝わって、フラウレティアは嬉しかった。
ドルゴールでたった一人の、人間という異種族を、本当の妹として大事にしてくれる。
「だから、まだ分からないよ。ちゃんと見て、考えて、それから決める」
「それは、人間の世界に行くことも考えるってことだろう。何だよ、ハドシュの奴、余計なことを言って」
不機嫌さを隠そうとせず、アッシュは鼻を鳴らす。
「もう、父様のことをそんな風に言わないの!」
フラウレティアが、ハドシュを庇うことが気に入らなくて、アッシュはもう一度鼻を鳴らした。
身体に巻いていた、薄い掛け布団を掴んで乱暴に投げる。
その布団が床に落ちる前に、彼の身体はグズリと輪郭を崩し、再び輪郭が固まる時には小さな翼竜に戻っていた。
アッシュは白い翼をバサリと一度伸ばすと、力強く床を蹴って飛び上がり、開いたままの窓から飛び出す。
「アッシュ!」
羽ばたいた風で、フラウレティアの明るい銅色の髪が散る。
アッシュはそのまま、臙脂色の鳥が飛んでいった方へ数回羽ばたくと、滑空して闇に消えた。
「アッシュ……」
もう何の影も見えない闇夜を、フラウレティアは見つめていた。