消えない黒い渦
アズワン湖での園遊会を終え、イルマニ王女とウルヤナ王子、そして側室トルスティは、そのまま避暑地で数日過ごした。
アンバーク領主館での魔穴消失を知ったのは、王宮へ戻る日の朝のことだ。
しかし、まさかその事件の渦中にフラウレティアがいたことや、その後の出来事などは知れるはずもなく、数日前に一緒に時間を過ごしたディードとフラウレティアのことを、何とはなしに心の隅で心配した程度だった。
そして予定通りに王宮へ戻ってみれば、知らされたのは、ウルヤナ王子の正妃候補を決定したということだった。
フルデルデ王宮の後宮の一室では、女王アクサナと側室トルスティが面会していた。
トルスティは、テーブルを挟んで正面に座るアクサナを見つめる。
二人の間に茶を用意してから、侍女と護衛騎士は離れて待機していた。
ティーカップを口に運び、ゆっくりと茶を口に含むアクサナは、この部屋に入ってから一度もトルスティと視線を合わせていなかった。
「一体なぜ、こんなに突然候補が決まったのですか? それも、私も、当人もいない時に」
トルスティが低く尋ねれば、アクサナはさも当然のように軽く頷いた。
「たまたまだ。そもそも、そなたや王子がいてもいなくても問題はあるまい。決めるのは王配なのだから。ようやく事が進むのだから、喜べ」
その言葉に、トルスティは膝の上で軽く拳を握った。
王子や王女の婚姻候補者を選ぶ権限は、多くの国に於いて王妃が持つ。
王の正室、フルデルデ王国では王配がそれにあたる。
例えトルスティの子であっても、王子と王女の婚姻の候補者を選ぶ権限を持つのは、トルスティではなく王配キールなのだ。
しかし、キールは病に倒れてから身体が弱く、伏せることが多い。
公務は最小限行っていたが、ウルヤナ王子の婚姻相手を選ぶことに関しては手つかずのままだった。
イルマニ王女が成人後に王太子となることは、公にされておらずとも確定の事実で、兄であるウルヤナ王子は、臣籍降嫁か、それとも王女の補佐として王宮に残るかのどちらかになる。
どちらにしても、成人の歳を越した王子の婚姻が宙ぶらりんであることは、異例中の異例だ。
今まで幾度となくトルスティが代わりに進めることを提案してきたが、認められたことはなく、ずっともどかしい思いをしてきた。
それが今、なぜ、急に……。
トルスティは慎重にアクサナの様子を窺う。
「ええ、喜ぶべきでしょうね。王子の為に、王配殿下が選ばれ、陛下がお認めになったのであれば」
アクサナは、茶が少なくなったカップを静かに置いた。
「勿論そうだ」
何の感情も乗らない一言は空々しく、トルスティの拳に力が入ったが、続く言葉に困惑した。
「アンバーク公の娘は、そなたも推していたと言うではないか」
「……アンバーク公の娘? フラウレティア嬢のことですか」
「そうだ。イルマニも大層気に入ったとか。それならば王子の相手にもちょうど良かろう?」
トルスティは強く眉根を寄せる。
トルスティがフラウレティアを園遊会に招いたことは、アクサナが知っていてもおかしくはないだろう。
しかし、園遊会で王子と王女がフラウレティアを気に入ったことを、なぜ知っているのだろうか。
トルスティ達は戻ったばかりで、園遊会でのことをまだ欠片も報告はしていない。
「……まさか、イルマニに監視を付けておられるのか」
「人聞きの悪いことを。付けているのは護衛だけだ。あの娘は、自分の立場をよく理解している」
アクサナは皮肉めいた笑みを浮かべた。
イルマニが歩くのは、自分が強いられた道だ。
“女王”継続の為に、我が身はある、という事実。
「ならば、どうして王配殿下は園遊会でのことをお知りになられたのですか。なぜフラウレティアをお選びに?」
「ザムリの進言があったのだ」
「……魔術士ザムリ? まさか、国政にまで口を挟ませているのですか?」
トルスティが美しい顔を険しくして言えば、アクサナは下らないと言うように軽く首を振る。
「魔術士殿が関わるのは、我が夫の治療に必要なことだけだ。その取り決めで側につかせていると、知っているだろう」
他国からやってきた素性の詳しく分からない魔術士を、女王の側付きで王宮に据え置く。
それが認められているのは、王配キールの奇病に関することのみに関わらせるという取り決めが、貴族院と成されているからだ。
そうでなければ、魔術士館の者達も許さなかっただろう。
トルスティは、尚も引っ掛かりを覚えて身を乗り出した。
珍しく所作が乱れ、テーブルに手をつく。
茶の残っているカップが、僅かに震えるような音を立てた。
「その魔術士が、なぜウルヤナの婚姻に対して進言する必要があるのです。第一、魔術士がどうやってアンバーク公の娘を知ったというのですか?」
「……知らぬ。ただザムリが必要だと言うのなら必要なのであろう」
「陛下」
「うるさい!」
声を強くしたトルスティを拒絶するように、アクサナが目の前のカップを払った。
手の側面に当たったカップは軽く横に飛び、厚いカーペットの上を転がる。
割れはしなかったが、僅かに残っていた茶がヒステリックに飛び散った。
「これは決定だ。既に召喚状は出し、了承の返信は得た。王子に拒否する理由もなかろう!」
アクサナは、言葉を吐き出す勢いでそのまま立ち上がった。
部屋を出ようとするアクサナの腕を、いつの間にか側に寄ったトルスティが掴む。
「無礼だぞ!」
「アクサナ」
間近で突然名を呼ばれ、アクサナは怯んだ。
娘二人を亡くしてから、トルスティに名を呼ぶことは許していなかった。
この部屋に入ってから一度も目を合わせていなかったのに、ぐいと腕を引かれて顔を覗き込まれ、視線が合わさった。
トルスティの甘い飴色の瞳が、真っ直ぐにアクサナを見つめる。
「もう少しだけ、ウルヤナとイルマニのことを考えてやってはもらえないだろうか」
「……何を今更」
「二人も、あなたの子だ。もう少し……」
「亡くなった娘も」
アクサナの痩せた唇が震えた。
どこか怯えて見えた焦茶色の瞳に、ユラと怒りの熱が滲む。
「……亡くなった娘達も、私の子だった。そなたと王子、……イルマニのせいで殺された」
トルスティは強く奥歯を噛んだ。
アクサナはずっと、キールとの間に生まれた二人の娘が亡くなったことを、三人のせいだと思い続けているのだ。
それが黒い渦となって彼女の胸を占め、ウルヤナとイルマニへ向けられている……。
側に寄った護衛騎士に促され、トルスティはアクサナの腕を離した。
途端にアクサナは顔を背け、逃げるように扉へ向かう。
「手の平を痛めていないか、診て差し上げるように」
アクサナについて行く侍女にそう一言添え、部屋に残されたトルスティは、ゆっくりとキツく瞼を閉じた。




