奪われたもの 4
「させるかぁぁっ!!」
ギルティンは、アッシュの手を屋根に縫い付けようと、渾身の力で隠し持っていたナイフを振り下ろす。
「!」
気付いたザムリドゥアが、即座に手を引いた為、ナイフの切っ先は手の甲には届かなかった。
それでも、竜人の硬質な皮膚の中でも比較的柔らかな親指の付け根に深く突き立つ。
しかし、突き通すまでにはいかず止まったのを見て、ギルティンが顔を歪めて叫んだ。
「アッシュ! 目を覚ませぇ!」
「無駄なことを!」
ザムリドゥアが全身から怒りを噴き上がらせ、屋根からギルティンを振り落とそうと、ナイフの刺さったままの右手を振り上げる。
柄を握ったままだったギルティンの身体が浮き、手が離れた。
「ギルティンッ!」
レンベーレが階下から叫んで腕を伸ばす。
同時にその手から放たれた氷球が、鋭くザムリドゥアの顔面を捉えた。
それは一歩程のわずかな後退であったが、氷球の当たった衝撃で動いた右足は魔法陣の縁を跨ぎ、ザムリドゥアの身体の重心はそちらへ傾いた。
魔法陣の複雑な紋様に、瞬時に光が走る。
人間が、竜人を後退させた。
「おのれ人間風情がっ!」
腹から湧き上がる怒声が響く。
ザムリドゥアが腕を振るった瞬間、その姿は魔法陣の光と共に、忽然と消えた。
一瞬、爆風に似た高温の風が辺りを走ったが、それもまたすぐに消え去った。
「くっ……そ、が……」
ザムリドゥアが消えた目の前の屋根を睨み付けた後、ギルティンが屋根の縁に引っ掛かるようにして倒れ込んだ。
見上げていたレンベーレが、驚いて数度瞬いた。
「消えたわ!」
「転移魔法陣だよ。あれでここにやって来て、元いた場所に帰ったんだ」
「じゃあ、とりあえず危機は去ったということ!?」
「竜人がいなくなったという意味ではそうだけど……。不味いな、精霊の暴走が収まらない」
荒れる魔力に臙脂色の羽根を震わせ、使い魔の鳥が呟く。
ザムリドゥアが姿を消しても、精霊達の暴走は収まらない。
この状況を引き起こしているのは、ザムリドゥアではなくフラウレティアなのだ。
「竜人がいなくなっても収まらないなんて……。フラウレティア!!」
暴走という言葉に慄いたレンベーレが、上に向かって叫んだ。
屋根の上で小さな背中を見せている少女は、ピクリとも反応しない。
荒れる魔力の勢いに、銅色の長い髪をされるがままに乱し、うずくまっているのだ。
「……あの子、聞こえてないの?」
「精霊と共鳴して、閉じてるんだ。以前にもあったんでしょう、こういうことが」
アンバーク砦の壁外で、不浄にまみれた魔獣と対峙した時、“共鳴”を果たしたフラウレティアは、その後、精霊との繋がりから意識を離すことが出来なくなっていた。
あの時はアッシュがいたから戻って来れたが、今はそのアッシュがいない。
それどころが、そのアッシュの変貌からのショックが原因でこの状態に陥っている。
人間というものは、突然の衝撃を冷静に分析して理解することなど出来ない。
ゆっくり落ち着いて考えれば、突然アッシュが危害を与えようとすることなどないと、フラウレティアにだって分かるはずだ。
しかし、あの瞬間には無理だった。
あの身体は紛れもなくアッシュ本人のもので、アッシュが自分を排除しようとする様を目の当たりにしてしまったのだから。
ハルミアンは舌打ちしたい気分だった。
フラウレティアでなければ、これ程精霊が引きずられることはない。
共鳴の能力を持った彼女だから、こうなったのだ。
鳥は、決意したように長い赤銅色の尾羽根を払った。
「僕がフラウレティアを呼び戻す」
「出来るの?」
「さあね。でもやるしかないでしょ。このままじゃ、本当に魔穴が出来あがっちゃう」
言って、鳥は強く羽ばたいて枝を蹴る。
「フラウレティアが戻ったら、その後のことは頼むからね!」
口を開けたレンベーレからの返事を待たず、鳥は高く飛び上がった。
エルフの使い魔は、魔力を練り上げて作られた疑似生物だ。
通常の生き物とは違い、風の影響はほぼ受けない。
しかし、精霊が暴走しているこの場は、さすがに思うようには飛べず、フラウレティアに近付くのも骨が折れた。
流れを見ながら、隙を突くようにして近付いたフラウレティアの様子は、ぼんやりとした表情で、目の焦点は合っていない。
鳥が近付いても、少しも反応しなかった。
「フラウレティア!」
反応しないであろうことは予想しつつも、ハルミアンはすぐ側で名前を呼ぶ。
予想通り無反応なのを確かめ、一度体勢を整えた。
本人が閉じようとしているのだから、多少強引なことをしなければ意識は向かないだろう。
ここは、魔力干渉によって“共鳴”に介入するしかない。
「何とか保ってよ……」
ハルミアンは呟いて、フラウレティアの肩に止まった。
荒れ狂う魔力の流れが、一瞬、ぐらり、と不自然に揺れた。
数拍おいて再び動き出した魔力は、それでも、その前に比べれば勢いを弱めた上に、流れがバラけ始めた。
わずかに顔を上げたフラウレティアの肩で、辛うじて形を保った臙脂色の鳥が言葉を発する。
「……フラウレティア、僕が分かる?」
そろりと顔を向けたフラウレティアの顔色は真っ白だったが、視線は弱々しくも、鳥の姿を捉えた。
「…………師匠」
「うん、そうだよ、久しぶりだね。ごめんよ、無理な魔力干渉をして」
フラウレティアの瞳が揺れる。
「あ……、わた、し……」
肩に乗るのは、ところどころが薄く透け、溶けたように尾羽根の消えた小鳥だった。
強引に魔力干渉を行ったことで、練り上げた強力な魔力の塊である使い魔も、無傷では居られなかった。




