黒渦
〘お前、誰だ!〙アッシュはそう叫んだつもりだった。
しかし、声は少しも出なかった。
まるで喉の奥が締まったように、自由に声を出すことが出来ない。
いや、声だけではなかった。
翼竜に変態した身体全てが、萎縮したように固く、上手く動くことが出来ない。
一瞬の内に目前の男の気配に呑まれ、アッシュの全ての感覚は狭められたのだ。
それ程に、男とアッシュの力の差は歴然としていた。
〘……声も出せぬか。それほど未熟な個体か?〙
男が声を出せば、アッシュに再び怖気が走る。
足下から見上げた形のアッシュには、フードを深く被った男の顔は、逆光で影になってよく見えなかった。
しかし、そこにあるのが生気のある人間の肌でないことだけは分かる。
暗く、くすんだ、ゴツゴツとした皮膚。
……まさか!
アッシュがその考えに辿り着いた時、微温い風が吹き、男のフードが揺れた。
光が届いた肌の上に、ひび割れたような鱗が並ぶ。
〘竜人……!〙
なんとか声を出したアッシュは、薄く笑った男の目を見て、咄嗟に身体を動かした。
強張った身体に精一杯の力を込めて、身を翻す。
生物としての本能が、生命を守る為に警鐘を鳴らした。
この者に近付いてはいけない。
逃げるのだ。
これは間違いなく、自分には手に負えない事態だ。
しかし、その素早い動きは一瞬で封じられた。
突然のしかかる様な圧力が身体を襲い、半歩分も動けないままに、アッシュは潰れるように屋根に押し付けられた。
男が、竜人特有の大きな爪の生えた手を翳している。
男の魔法によって、アッシュはこの場に縫い付けられたのだ。
〘あ……ぐぅ……〙
萎縮していたとはいえ、アッシュは竜人だ。
力は人間とは比べ物にならず、魔力自体も簡単な魔術くらいは弾き返せる程度には備わっている。
それがこうも簡単に抑えつけられているのは、間違いなくこの男の能力が、アッシュよりも格段に勝っている証だった。
藻掻くアッシュの目に映る男の姿は、確かに竜人のものだったが、アッシュの知った者ではない。
ドルゴールの竜人ではないのだ。
まさか、ドルゴール以外にも竜人が生き残っている場所があったのだろうか。
しかし、そんな疑問が過る間にも、アッシュを抑えつける力は増す。
とうとう呼吸さえも苦しくなった時、唐突にその圧力が去った。
アッシュは即反応した。
必死で息を吸い込み、むせながらも今度こそ身を翻し、室内に入る為に窓へ飛び込もうとした。
フラウレティアも、何としてもこの危険から遠ざけなければならないと思ったのだ。
屋根の縁を蹴り、宙へ身体を放とうとした途端、無情にも鋭い命令がアッシュを縛り付けた。
〘変態せよ〙
〘!?〙
ただ一言の命令であったのに、アッシュの身は当然のようにそれに従った。
縁に脚をかけたにも関わらず、屋根から飛ぶことが出来ず、その場で即座に輪郭を崩すように翼竜から人形へ変態を果たす。
そしてそのまま、服従するように両手片膝を下について頭を垂れた。
しかし、その頭の中は激しく混乱している。
なぜ俺は従っている!?
なぜ抵抗することが出来ないんだ!?
畏れと慄きに満ちて視線を上げた先、赤黒く見える魔力が男を中心として渦を巻く。
男は両手でローブの前を開いた。
やはり、男は竜人だった。
全身に薄い鱗の鎧を纏ったような姿であったが、粉を吹いたような黒の鱗は、陽の光が当たるとくすみを増し、少し動いただけでひび割れ、端から欠ける。
まるで崩れ落ちる途中である様に、ひどく脆いものに見えた。
男は、ボロボロと崩れ落ちる表皮を気に留める風もなく、ゆっくりと顎を上げ、アッシュを尊大に見下ろした。
〘若き同胞よ、我の心臓を与える〙
〘…………何だと?〙
強く眉根を寄せて問い返したアッシュの声には反応せず、男は最後の命令を放った。
〘取り込め〙
アッシュが出て行った部屋で、神官から治癒の神聖魔法を施されていたフラウレティアは、身体を芯から回復させる神聖力の温かさを感じ、ほうと息を吐いた。
身体が丈夫で、怪我も病気にも縁遠い竜人達は、基本的に神聖魔法の世話になることはない。
そもそもドルゴールに神殿はないので、神聖魔法や、神聖力を扱う聖職者というものは知っていても直接関わったことはなく、今回生まれて初めて神聖力による治癒を体感したのだ。
この世界には、確かに神が存在している―――。
そんなことを思い浮かべるほどに、その感覚は、フラウレティアにとってとても不思議なものだった。
しかし、神官が翳していた手を除け、その感覚が去った途端、別の感覚がフラウレティアの全身を撫でた。
感じたことのない、巨大な魔力。
少し離れた所に座って見守っていたレンベーレにも感じられたようで、彼女はガタンと椅子を倒して立ち上がった。
「今のは何!?」
「アッシュは!?」
二人は同時に声を発した。
驚く神官を無視して、レンベーレは扉を開け、フラウレティアは窓を大きく開いた。
アッシュは先程窓から出たはずだが、その姿は見えない。
そして、まるで世界が止まっているかのように、窓の外の風景には生命の気配を感じることができず、あまりにも静かだ。
この村には人間もたくさんいるはずなのに、なぜこうも静かなのか。
「アッシュ!」
呼んでも反応はなく、フラウレティアは言いようもない不安に駆られた。
これは何?
ほんの少しの間に、一体何が起こったの?
まるで別の世界に変わってしまったみたい……。
突如、先程の巨大な魔力が、頭上で大きくうねった。
全身が総毛立つ程の冷気と気配が、フラウレティアを襲う。
よろけて窓枠を掴んだ時、アッシュの叫びを胸の奥で聞いた気がした。
「アッシュ!?」
フラウレティアは全身の強張りを振り払い、迷わず窓枠に足を掛けた。
ここは二階だ。
驚いた神官が叫び、フラウレティアに飛び付いて止めようとしたが、その手が届く前に彼女は枠を踏み切った。
目の前で落ちると思われた少女は、しかし、力強い跳躍で屋根の縁を両手で掴むと、そのままひらりと屋根上へ姿を消した。
 




