静寂は嵐の前に
旧領主館を解放した日の夕刻。
旧領主館から少し距離を空けた小さな村に、フラウレティアとアッシュはいた。
“共鳴”を行った後、フラウレティアはしばらく気力で意識を保っていたが、離れて顛末を見守っていたディード達が敷地内に入るのを見届けた後、アッシュの腕の中で気を失った。
レンベーレの見たところでは、以前アンバーク砦の魔獣討伐で初めて共鳴した時のように、精霊との共鳴から抜け出せていないわけではないという。
アッシュが見ても、フラウレティアの魔力自体は少々荒れているが、暴走しそうな状態には見えない。
おそらくは、疲れ切って眠っているのだ。
精霊達との共鳴は、それ程に疲弊を伴う行為なのだろう。
その後すぐに発熱したフラウレティアを休ませる為、ギルティンは知り合いがいるこの村へ、彼女とアッシュを連れて来た。
村に宿はなく、ギルティンの知り合いを頼って、民家の一室を借りている。
フラウレティアが横になったベッドの側で、椅子に腰掛けたアッシュは、心配そうに彼女を見つめて手を握っていた。
フラウレティアをベッドに寝かせた途端、彼女の手を握ってから、ずっとこの状態なのだ。
手を握り合うことが出来るのなら、そうさせてやりたい。
それでギルティンは、黙って扉の外に立った。
アッシュは隠匿の魔法を使っていたが、フラウレティアはそのままだ。
未だ領主の娘であるフラウレティアを、旧領主館の魔穴が消滅したこの日に、あまり印象付けたくない。
しかし、隠匿の魔法を使えば、アッシュ以外の誰もフラウレティアの様子を見ることが出来ないので、念の為魔法は使わなかった。
アッシュはチラリと目線を上げる。
精霊達もフラウレティアを心配しているのか、部屋の中でふわりふわりと周りを飛びながら光を放っていた。
フラウレティアの呼吸は荒い。
熱で上気した頬に汗で張り付く髪の筋を、アッシュは薄い灰色の爪先でそっと払う。
柔らかな頬を傷つけないように、そろそろと動かしたのが不味かったのか、眠っていたフラウレティアが、薄っすらと目を開けた。
「フラウ!」
「…………アッシュ?」
顔を覗き込めば、熱の為か、フラウレティアは潤んだ瞳でアッシュを見上げた。
その瞳は深紅ではないにしろ、元の銅色に比べればずっと赤味が強い。
「ここ、どこ……」
「旧領主館から少し離れた村に連れてきてもらった。あの後、フラウはすぐ眠ってしまったんだ。覚えてるか?」
「……うん」
ディード達が旧領主館の敷地に入ったところを見た。
薄れる意識の中で、ディードの慟哭を聞いた気がするが、覚えているのはそこまでだ。
「ごめん、アッシュ。すぐにドルゴールに帰るって決めてたのに」
「良いんだ。フラウが元気になったら発とう。だから、ちゃんと休め」
正直に言えば、アッシュは旧領主館を解放したタイミングで発ちたかった。
事の大きさに周囲が混乱している内に、姿を消したかったのだ。
しかし、さすがにこの状態のフラウレティアを連れて移動出来ない。
アッシュが手の甲で優しく頬を撫でれば、フラウレティアはその手を握って縋るように頬を寄せ、弱々しく言葉を吐いた。
「……私……、余計なことしたのかな……」
旧領主館の魔穴を、アンバーク領の人達の為にも、精霊達の為にも、あのままにしておくべきではないと思った。
だが、意識を失う前のディードの声を思い出すと、そんな言葉が出てしまった。
疲れと高熱とで、弱気になっているのからこその揺らぎであったが、部外者である自分を意識してしまったことも確かだ。
「そんなことないさ」
人間の事情など分からないが、大事な場所が魔穴に飲み込まれたままで良いはずがないことくらいは、アッシュにも想像出来る。
「そうよ、フラウレティア」
力強い言葉と共に、扉が開いてレンベーレが入って来た。
「レンベーレ様……」
フラウレティアは、なんとか上体を起こした。
「今は混乱している……というより、これからきっと大混乱ね。本当に、あなたは凄いことをやってくれたから」
フラウレティアがわずかに怯むと、レンベーレは躊躇わずベットの端に腰掛けてフラウレティアを強く抱きしめた。
「ありがとう、フラウレティア。あなたのおかげで、アンバーク領の人々は……私達は、ようやく動き出せるのよ」
十数年前の事故から、関わる人々は必死に生きて来た。
前を向いて、と言うのは簡単だ。
しかし、魔穴という目に見える形で残された過去の惨事は、人々の心を深くその場に縫い付けてしまっていた。
どれ程に明るく生きていても、忘れられない、あの日、あの場所。
亡くなっているであろうに、供養さえ出来ない人々のこと―――。
「フラウレティア、ありがとう……」
抱きしめるレンベーレの力と、耳元で聞こえる震える声に、フラウレティアもまた、ようやく安堵の息を吐くことが出来たのだった。
しばらくして、フラウレティアから身体を離したレンベーレは、ズズッと鼻を鳴らして笑った。
ここに来て涙は見せていないが、おそらくここに来る前にたくさん泣いたのだろう。
間近で見る美しい彼女の目は腫れていた。
「ああ、苦しいのにごめん! 神官を連れてきたの。すぐに神聖魔法で癒やしてもらうと良いわ」
「神聖魔法?」
「ええ。自然回復を待つより、良いでしょう?」
早く発ちたいアッシュの気持ちを知ってか、レンベーレはアッシュの方を見て頷いた。
「これだけのことが起こったからには、きっと早々に中央からも官吏がやって来るわ。だから、少し無理をしてでも早く出発した方が良い。……本当なら、ゆっくりお礼をしたいところだけど……」
「いいえ、レンベーレ様。私の方が、いっぱいお礼を言わなきゃ……」
心からそう言っているフラウレティアを、レンベーレはもう一度そっと抱きしめた。
レンベーレが連れてきた神官に癒しの神聖魔法を施してもらったら、汗を掻いた身を清めて、今夜中にも出発する。
フラウレティアがそう決めたので、アッシュは一度翼竜に変態して、窓から部屋を出た。
フラウレティアへの気持ちを自覚してから、今まで着替えや身支度の時に、当たり前に側に居られた自分が信じられない。
だから、何か言われる前に「終わったら呼んでくれ」と自分から席を外した。
しかし、落ち着かないのは、それだけが原因だろうか。
アッシュはバサリと翼を動かして、屋根の上に飛び上がった。
縁に止まり、大きく息を吸う。
この言いようもない不安と焦りはなんだろう。
魔穴は片が付いた。
もう、人間の世界から離れられるというのに。
ふと、アッシュは違和感を感じて周りを見渡した。
この静けさはなんだ。
旧領主館での変異があったからなのか。
周りにあれだけ見えていた精霊の光が、一つも見えない。
フラウレティアの側にいるのか?
違う、精霊の光は、どこにでも一つ二つはあるはずだ。
精霊を圧倒する程の、何かがなければ。
〘ふむ、予想よりも更に若いな……〙
ザラリとした声に背中を舐められたような怖気を感じ、アッシュは弾かれるように振り返った。
いつのまに現れたのか、深くフードを被った男が間近に立ち、アッシュを見下ろしていた。




