旧領主館の解放 4
心配そうなアッシュから身体を離し、フラウレティアはゆっくりと目を閉じる。
再び感じるのは、感覚を狂わせるような圧力と魔力の渦。
だが、今度はアッシュと繋いだ手の感覚を見失わなかった。
胸の奥から湧き上がる、温かくて強い感情は、しっかりとフラウレティアの心を支える。
私の心は、ここにある。
大好きなのは、アッシュだ。
ここに残る人々の想いは胸に響き、同調することは出来るが、決してフラウレティア自身のものではない。
そして、亡くなったニンフのものでもないのだ。
フラウレティアは目を開け、一歩踏み出した。
再び、庭園の風景が映し出される。
フラウレティアの意識がしっかりしているせいか、先程見た時よりもずっと朧だった。
庭園には、やはり美しいニンフが立っていた。
彼女はフラウレティアの方へ、同じように幸せそうに微笑んで手を伸ばす。
一緒にいましょう。
ここに。
皆で、幸せで平和な時を、ずっと……。
「いいえ」
きっぱりとフラウレティアが言った。
「そんなことは、望んでいないわ。誰も。ニンフもよ、精霊達」
微笑んでいたニンフの姿が揺らいだ。
フラウレティアが、その姿の横をすり抜けるように進むと、ニンフは溶けるように金の光の中に消えた。
どれだけたくさんの風景を見せられても、それらは全て、過去の映像だった。
楽し気に笑う人々は、ここにいるフラウレティアに対して、何かを訴えかけてくることはない。
それは、旧領主館に囚われたままの、亡くなった人々の記憶から投影されたものだからだ。
しかし、ニンフだけは違った。
ニンフもまた、あの事件の時に亡くなっていて、今生きているフラウレティアに直接関わることなど出来ないはずなのに、だ。
関わることが出来るのは、今、ここに存在するものだけ。
アッシュ、そして、精霊達だけだ。
「あのニンフは、精霊達が作り出した幻。私に共鳴して取り込む為に、同調の手掛かりとして動かしたんでしょう?」
金の光が、大きく揺らいだ。
その揺らぎこそが、フラウレティアの言葉を肯定している。
やはりあのニンフは、精霊達が彼女への想いを込めて創り上げたものなのだ。
精霊に愛され、精霊を愛する種族、ニンフ。
精霊達は、彼女が亡くなったことを悲しんだ。
そして、ここに残し、閉じ込めてしまったのだ。
彼女の幸せな“生の証”を。
「幸せであって欲しいと願ったのよね。そして、そこにずっと一緒にいたいと思った……。分かるわ。私も大好きな人がいるから」
フラウレティアは胸に手を置き、握る右手に力を込める。
この胸の想いは、アッシュがいるから熱を持つ。
横を向いて見上げれば、魔力の流れに長い髪を乱したアッシュが、フラウレティアを見つめている。
周りがどれ程不安定に荒れていても、ただ、フラウレティアを案ずる気持ち、想う心は揺らぐことなく繋がっている。
「大好きだから、一緒にいたい。側にいて欲しい、いなくならないで欲しい。大好きな人が失われたことが、悲しくて、寂しくて、辛くて……」
轟々と渦巻く魔力の圧が高まり、フラウレティアの髪を舞い上げる。
「分かる、分かるよ……」
サワサワという精霊達の声が、大きくなって乱れていく。
「……だけど、閉じ込めちゃいけないの。一緒にいたいし、離れるのは寂しいけど……でも、大好きな人に本当に願うことは、そうじゃないよね!?」
ゴウッと魔力が渦巻いた。
同時に、フラウレティアの心を、精霊達の叫びが大きく抉る。
涙が溢れたが、同時に、堪らなく愛しい気持ちが込み上げる。
精霊達の、ニンフを想う気持ちと共鳴したのだ。
フラウレティアは、引き裂かれそうになる自身を感じ、アッシュに抱きついた。
声を上げて泣きながら、大きな身体に縋る。
しかし、アッシュは少しも怯むことなく、フラウレティアの身体を強く抱きしめ返した。
「フラウ! フラウレティアッ!」
名前を呼ぶ声に、身体を強く抱く腕に、フラウレティアは力を得る。
アッシュの服を強く握りしめ、その胸に額を擦り付けて叫ぶ。
「笑っていて欲しい! 幸せでいて欲しい! 願うのはそういうことでしょう!?」
だから、精霊達が創り上げたニンフの幻は笑っていた。
幸せそうに。
平和な世界で、一緒にいようと言ったのだ。
辛いことなど、欠片も感じないように。
でも、つくりものでは駄目だ。
本当に幸せを願うなら、囚われた想いを解放してやらなければ。
そして、同じようにこの場に囚われている、精霊達自身も。
ニンフも精霊達を愛し、精霊の幸せを願っているはずなのだから。
「大好きだから!」
呟いた言葉は、フラウレティアの心からのもので、同時に、この場に囚われ続けていた精霊たちの心でもあった。
ドウッ、と周囲に風が巻き起こる。
二人の身体を取り巻いていた魔力の圧力が急激に消え去り、強風と共に眩しい金の光が散る。
精霊達がこの場を手放し、去っていくのだ。
周囲のあまりに急激な変化に、一瞬気を失いかけたフラウレティアだったが、糸の切れた操り人形のように脱力した身体は、アッシュがしっかりと抱き留めた。
「フラウ! 大丈夫か!?」
「…………うん、大丈夫……」
アッシュに支えられたまま、フラウレティアは周囲に視線を向ける。
視界を遮るものは、もう何もない。
この場所は、本来の姿を曝け出したのだ。
フラウレティアは苦しく表情を歪めて、アッシュの胸に顔を埋めた。
巨大な魔穴の中で、この場所の時間はゆっくりと進んでいたのだろう。
魔穴が消え去った旧領主館の敷地には、生々しいあの日の爪痕と、白骨化した多くの骸が青空の下に晒されていたのだった。




