旧領主館の開放 3
フラウレティアは、アッシュと共に歩いて魔穴へ近付いた。
魔穴の周辺には、人間以外の生き物も近付かない。
近付けば、引きずり込まれるか、弾き飛ばされるかのどちらかだと知っているからだ。
近付けば近付くほど静まり返り、風は殆ど吹いていないのに、その微かな音だけが異様に耳に届く。
まるで魔穴自体が、何者も近付くなと警告を発しているかのようだ。
いや、おそらく実際に、魔穴の中心となっている精霊たちが近付くなと警告しているのだろう。
フラウレティアは、隣に立つアッシュの手を強く握る。
「アッシュ、絶対に手を離さないでね?」
アッシュはフラウレティアの手を握り返しながらも、強い視線で見下ろした。
「ああ、もちろん」
フラウレティアは頷き、足を踏み出した。
一歩進む度、明らかに外とは違う空気感が増していく。
全身が粟立つような感覚を味わいながら、フラウレティアは、それでも足を止めずに進んだ。
視界が揺れ、景色が歪む。
一瞬、魔力の流れが二人の身体に強くぶつかってきた。
フラウレティアの身体が強張ったが、流れをはっきりと見ることの出来るアッシュは、庇うように前に出てそれを上手く受け流した。
人間だけでは、こうはいかないだろう。
恐れに打ち勝って魔穴に近付いても、人間は必ずここで弾かれるのだ。
そして、誰も魔穴に入ることの出来ないまま、月日は流れたに違いなかった。
離れた場所から二人の背中を見守っていたディードは、その姿が濁った靄の中に消えるのを見て、思わず一歩前に出た。
しかし、側に立つレンベーレがそれを止める。
「私達に出来ることはありません」
言った声は固く、その視線は魔穴から離されない。
この場に残った者の中で、誰よりもはっきりと魔穴を、その魔力を見ることが出来るのはレンベーレだ。
ディード達よりも、実は彼女の方がフラウレティアの試みを恐れ、心配しているのかもしれなかった。
「……どうか無事に戻って……」
呟かれた言葉は、辺りの異様な熱気に吸い込まれた。
強い圧迫感と共に、身体が押し出されるような感覚と、強く引かれるような感覚。
その言いようもない感覚が繰り返され、フラウレティアを麻痺させる。
アッシュと繋いだ右手だけに感覚を集中しようとしたが、周囲を取り巻く眩しい光と渦巻く魔力のせいで、上手く集中出来ない。
それでも足だけは前に動かしたが、その一歩すら、最初よりも覚束ない。
次第に呼吸が荒くなり、気分が悪くなってきた。
さわ、と小さな音が聞こえた。
知っている。
これは、精霊の声だ。
以前夢にも見たように、この眩しい光と小さな囁きのようなものは、精霊達の発するものなのだ。
旧領主館に集まる精霊達が、外部から入ってきたフラウレティアに働きかけている。
魔穴から弾き出すことを諦めたのだろうか。
しかし、フラウレティアがそれを意識した途端、眩しい光だけであった世界は、突然景色を変えた。
目の前に現れたのは、色とりどりの花が咲き誇る美しい庭園。
花々の間を、談笑しながら歩く人々。
笑顔で駆ける子供たち。
しかし次の瞬間には、演劇の舞台のように風景は変わり、四阿でお茶をする婦人達が。
さらに次には、門を入ってくる優雅な馬車が……。
とりとめなく、次々と流れていく様々な風景に、まるで酔ったかのように、フラウレティアの頭はクラクラしてきた。
流れていく風景は、今目の前にあるものではない。
それらはおそらく、ここで亡くなった人々の記憶から投影されているもので、過去の領主館の風景なのだろう。
何気ない日常の一場面。
平和な日々の暮らしが映し出されては、消えていく。
フラウレティアは心を揺さぶられた。
ドルゴールから出て初めて知った、人間の生活。
それは、ドルゴールでの生活と同様に、日々の平和を愛おしむ、生き物達の営みだ。
そして、フラウレティアが幼い頃から心の底では知りたいと願っていた、人間同士の触れ合いだった。
フラウレティアの心が揺さぶられる程に、映る景色は鮮明になっていく。
人々の笑い声、足音。
揺れる木々から葉擦れが聞こえ、小鳥が愉しげに歌う。
爽やかにそよぐ風の音。
どこからか流れてくる穏やかな音楽。
まるでここに、平和な世界に、自分がちゃんと存在しているような気がする。
サワサワと、さざ波のような音が聞こえる。
それは、フラウレティアに優しく囁くように聞こえた。
ずっと、ここにいよう。
愛する人と、平和な時間を。
庭園で花を愛でていた一人の女性が、ふとこちらを向いた。
今までは、ただ見せられるだけの映像であったのに、彼女は確かにフラウレティアを見て、ふわりと微笑んだ。
透き通るような白い肌、長い手足、陽光を弾く細い金の髪、人間離れした儚くも美しい顔立ち。
大精霊の女性だ。
柔らかな光を宿す蜂蜜色の瞳を細め、彼女はフラウレティアに緩く手を伸ばした。
一緒にいましょう。
ここに。
皆で、幸せで平和な時を、ずっと……。
ここは、なんて温かいのだろう。
なんて穏やかで、優しい場所。
フラウレティアは微笑んだ。
そうだ、愛する人々と、ここにいよう。
ここにいれば、ずっと幸せで、平和で、なんの痛みも心配もない……。
グンッ、と右腕が引かれた。
なんだろう、何かが気になる。
ぼんやりと、フラウレティアは右手を見た。
途端に、何かが身体を包み込む。
それは、温かくも柔らかくもない。
どこかひんやりとして、ゴツゴツと固い感触。
それなのに、フラウレティアの胸は早鐘を打った。
側にいて。
抱きしめて。
離さないで。
大好きなの。
熱い気持ちが、胸から競り上がり、溢れ出す。
私がいたい場所はここじゃない!
「アッシュ!」
名を呼んだ途端、世界は一変した。
轟々と渦巻く金の光と魔力の渦。
穏やかな庭園など欠片もなかった。
「フラウレティア! しっかりしろ!」
我に返れば、フラウレティアはアッシュに抱きしめられていた。
右手は、アッシュの左手が握ったままだ。
「……アッシュ」
「フラウ、目を覚ましたか!?」
右腕でギュッとフラウレティアを抱き締めていたアッシュが、わずかに力を緩めて顔を覗き込む。
「突然眠ったみたいに反応がなくなったから、心配した」
「……うん、ごめん」
真実は、肌に触れた目の前のアッシュだけ。
今見えていたものは、精霊と亡くなった人々の残された想いに同調させられていただけだ。
フラウレティアは顔を上げて、金の世界を見回すと、右手に力を込めてアッシュの左手を握り返した。
「もう大丈夫」




