旧領主館の解放 1
火の季節も終りに近いが、まだ深夜を除いて気温は高い。
それにしても、今日はいつになく暑い日だった。
ムッとした熱気を揺らすように、それは存在した。
巨大な魔穴。
フルデルデ王国とザクバラ国の国境近く、旧アンバーク領主館は、巨大な魔穴となったまま、変わらずその場所にある。
濁った靄のようなその巨大な塊は、よく見ればゆっくりと揺れ動いている。
そして時折、その靄の向こうに、大きな建物の影が見えた。
それは、半壊して元の姿から大きく形を変えた旧領主館のもので、少しもはっきりとは見えないはずであるのに、この場にいる者達の胸を深く抉るのだった。
この場にやって来たのは六人。
フラウレティアとアッシュ。
そして、ディード、アイゼル、レンベーレとギルティンの、アンバーク領の人間だ。
園遊会の帰り道で、フラウレティアが言い出した旧領主館への訪問は、もちろんディードにもレンベーレにも、アンバーク砦の新団長アイゼルにも反対された。
そして、アッシュにも。
なぜなら、フラウレティアはここで“共鳴”を試すと宣言したのだ。
精霊と共鳴をして、この地を鎮める。
その無謀としか思えない試みを、フラウレティアは誰から反対されても、取り下げようとはしなかった。
フラウレティアが本気でそうしようとするなら、ディード達がどう止めようと、アッシュさえ説き伏せてしまえば、彼の魔法と身体能力を以て、二人だけで目的地へ行けるのは間違いない。
それで結局、ディード達も同行することを条件に、今日この場を訪れることになったのだった。
随分と顔色の悪いディードが、顔を上げては、地面に視線を落とす。
魔穴を恐れて近寄りたがらない馬を降りたのは、魔穴から離れた廃屋の側だ。
旧領主館の事故があってから、この付近の住人達は、皆別の場所に移り住んだ。
この場に立つこと自体、ディードにとっては数ヶ月ぶりのことだった。
十数年前にこの地が魔穴となってから、最初こそ度々足を運んでいたが、その度憔悴を増す彼を見て、周りの者達が止めるようになったからだ。
突然領主の座に就かなければならなくなったこともあり、一度訪れるのを止めれば、多忙を理由にあまり足を運ばなくなった。
いや、一度遠退けば、再び足繁く通うことが出来なくなったと言う方が正しいのかもしれない。
どれほど間を開けて訪れても、巨大な魔穴に、変化といえるような変化は見られない。
そして、訪れても、何一つ自分に出来ることはないのだ。
その事実が彼を苦しめ、頻繁に訪れることは出来なくなった。
それでも、完全に止めてしまうこともできず、今は季節に一度程度この場に立ち、ディードは愛する家族を想って胸を痛めていた。
ディードの側につくアイゼルもまた、あの日の衝撃を忘れられないでいたが、目の前で妻子を失くしたディードに比べれば、幾分かはマシな様子だった。
そして、二人を見守っていたレンベーレは、心配そうな視線を、離れた所に立つ別の二人に向ける。
フラウレティアとアッシュだ。
ここに来てから、事にあたる前に、二人だけで話したいと言って、少し離れた所まで歩いて行った。
レンベーレ達三人と、フラウレティア達二人のちょうど中間辺りには、ギルティンが腕を組んで立っていた。
“お嬢様”の役から離れるフラウレティアが、もう護衛は必要ないと言ったのだが、彼は「念の為、二人が領を離れるまでは」と譲らなかった。
レンベーレには分からないが、以前話した時に感じた、彼を頑なにさせる何かがあるのかもしれない。
「アッシュ、心配してる?」
「当たり前だろう」
四人から離れて二人になると、フラウレティアはアッシュを見上げて聞いた。
アッシュはわずかに眉根を寄せる。
あまり表情は動かないが、そのわずかな変化で、フラウレティアには彼の気持ちがよく分かった。
「ごめん。でも、どうしてもここをこのままにしておけないの」
人間の世界に突然投げ出されたフラウレティアが、今こうしていられるのは、ディード達アンバーク砦の人達のおかげだ。
特にディードには多くを助けてもらった。
そして、ほんの少しの間だけれど、人間の父とした人。
とても感謝している。
ディードをはじめ、その人々の心に大きな憂いを与えているこの地を、フラウレティアは解放したかった。
―――解放。
人々の心の問題だけでなく、精霊達の解放。
フラウレティアが強く望むのは、それが理由でもある。
アンバーク砦で、平原に現れた不浄の魔獣の時のように、この巨大な魔穴に囚われている精霊達を解放したい。
アッシュやレンベーレには、規模が違いすぎると言われたが、精霊達が多くの叫びに巻き込まれていることには変わりがない。
不浄の魔獣の時には、“帰りたい”というその声を掴むのに苦労したが、今回はむしろ、その点においては迷わなくても良い。
フラウレティアは、改めて魔穴を見つめる。
周りを覆うのは、人間たちが戦い血を流した事による怒りと、生命を理不尽に奪われた領主館の人々の痛苦と悲しみだ。
しかし、その芯の部分は精霊達の嘆き。
彼等は、愛するニンフを失くした事を嘆き悲しみ、それに囚われ続けている。
精霊に共鳴出来るフラウレティアには、それを感じることが出来た。
「止めても、ちっとも言うことなんて聞かないんだからな」
「うん。ごめんなさい」
「…………これが終われば、すぐドルゴールに帰るんだよな?」
フラウレティアは、令嬢の服装ではなく、ドルゴールからやって来た時の服に戻っていた。
旧領主館に来て“共鳴”を試したら、思うような成果が出ても出なくても、その足でドルゴールに向かう約束だった。
「うん」
「じゃあ、もう何も言わない」
躊躇いなく頷いたフラウレティアに、アッシュは渋々ではあるが、心を決めた。
アッシュは上空を見上げた。
晴れて熱を持つ空には、魔穴の近くだというのに、一羽の小鳥が旋回していた。
人間には判別出来ないであろうが、あれは見知らぬエルフの使い魔だ。
知識欲の塊であるエルフ達は、人間達に気付かれないまま世界中の様々な場所に潜み、使い魔を使って多くのことを識る。
そして、エルフ同士で知識交換をして、その幅を広げているのだという。
ドルゴールから動いていないハルミアンが、世界の情勢を知っているのもその為だ。
アンバーク砦の外でフラウレティアが魔力を解放し、“共鳴”を行ったことをすぐにハルミアンが知ったように、今日ここでやろうとしていることも、おそらくはあの使い魔を通してすぐに伝わるのだろう。
そんなことを考えていたアッシュの手を、フラウレティアが不意に握った。
「あのね、アッシュ、魔穴へ行く前に、どうしてもはっきり言って欲しいことがあるの」
「言って欲しいこと?」
訝しげに問い返したアッシュの目を、フラウレティアは緊張した面持ちで覗き込んだ。
「アッシュが、私のことをどう思っているのか、……今、教えて欲しい」




