帰郷の決意
馬車が出発すると、座席に向かい合って座ったディードが口を開いた。
「……領主の娘としたばかりに、思わぬことになってしまった。……すまない」
「謝らないで下さい、ディード様」
フラウレティアが急いで首を振った。
フラウレティアにとっては、どんな経験も、人間という種族を知る上で興味深いことばかりだ。
一人では知ることが出来なかったことも、ディードの協力があって多くを知ることができたし、考えることも出来ている。
フラウレティアの言葉に頷きつつも、ディードは申し訳無さそうに視線を窓の外に向けた。
湖面に朝日が反射し、辺りは眩しい輝きを増し始めている。
その光が、まるで自分達を追いかけて来るようで、爽やかな朝の風景であるはずなのに、得体の知れない不安が湧く。
「どういう訳かは分からないが、やはり殿下達の君への関心が増しているようだ。アンバーク領に戻り次第、領街のどこかに落ち着ける場所を用意するから、領主館を出た方が良いだろう」
それについては、フラウレティアも同感であった。
特殊な生い立ちだからというだけでなく、なぜか自分に興味を持たれている。
あくまでもドルゴールのことを秘密にして行動している以上、それは喜ばしいことではない。
それで、フラウレティアは頷こうとしたが、そこにアッシュの声が割って入った。
「人間の暮らしに、まだ交じっていないと駄目か?」
え、とフラウレティアが顔を向ければ、隣の座席に座ったアッシュが、真っ直ぐに視線を向けていた。
「フラウ、ドルゴールに戻ってはいけないか?」
「アッシュ?」
アッシュは膝の上に置いたフラウレティアの手に、そっと触れた。
「人間の世界を知りたいなら、邪魔するつもりはなかった。フラウが知りたいことを知って、自分の意思でこの先を選択するのを見守ろうって……俺……」
どこか思い詰めたような瞳で、アッシュはフラウレティアを見詰める。
「だけど、フラウがこれからもドルゴールで生きることを決めたのなら、一度戻ってはいけないか? 人間の世界をもっと知りたいのなら、せめて暫く間を開けてから、もう一度来ても……」
「アッシュ、どうしたの? 何かあった?」
下から覗き込むようにアッシュの顔を見上げ、フラウレティアが尋ねる。
「……不安なんだ」
アッシュは素直にそう零した。
何があっても、自分がフラウレティアを守る。
漠然とそう思ってきた。
例えどんな選択を彼女がしても、受け入れるつもりでもあった。
それは保護者である自分の役割だと思ってきたから。
しかし、それは既に崩れた。
フラウレティアはいつの間にか、自分が保護するべき赤ん坊ではなく、一人で何でも決められる人間になり、掛け替えのない気持ちを向ける、ただ一人の少女になった。
フラウレティアを、ただ一人の異性として想っていると気付いてしまったのだ。
そして、ずっと胸に抱えてきた痛みやモヤモヤの正体を知った途端、アッシュを襲ったのは不安だった。
わけの分からない人間社会。
何が尊いのか理解できない身分制度。
いつの間にかそこにフラウレティアが連れて行かれて、すぐ側に付いていることさえ出来ない自分……。
雪崩式にこのままアンバーク領にいて、本当に良いのか?
自分達の選択に関係なく、フラウレティアを連れ去られはしないのか?
あの王族とやらの反応を見ても、不安は膨れる一方だった。
そして何より、あの粘るような気配がどこにいても強くなっている気がして、アッシュの心に焦りが増していた。
一度ドルゴールに戻り、ハドシュやハルミアンに相談した方が良い。
あの得体の知れない気配は、きっと自分の手には負えないものだ。
あの気配を感じるようになって、自分が竜人族としてはまだまだ若輩なのだと、アッシュは嫌でも痛感させられている。
フラウレティアは、膝の上の手に乗せられた大きなアッシュの手に、もう一方の手の平を包むように乗せた。
「うん、ドルゴールへ帰ろう」
シワの寄っていたアッシュの眉間が、わずかに開いた。
「………フラウ、いいのか?」
自分で提案したくせに、あっさりと了承されて、アッシュは思わず聞き返す。
フラウレティアは微笑んで頷いた。
「アッシュにそんな顔させてまで、今しなくてもいいもの」
竜人族と人間、これから先の関係の可能性を探りたいと思って、人間の世界に残ることにしたのだ。
それは、今すぐどうこう出来るものではないと思うし、ましてやフラウレティア一人で大きく変えられるものでもない。
それならば、仕切り直してゆっくり取り組んでも良いはずだ。
「師匠のことも心配だし、一度ドルゴールに帰るよ。父様とも、色々話さなきゃ。ディード様、それでも良いですか?」
「ああ、もちろん」
フラウレティアに視線を向けられ、ディードは頷いた。
むしろフルデルデ王国から出た方が、王族からの執着から逃れられるだろう。
もしもの追求や叱責は、ディードが引き受ければ良い話だ。
明らかにホッとした様子のアッシュを見上げ、フラウレティアは握る手に力を込めた。
「でもね、アッシュ、お願い。帰る前に一箇所だけ行きたい場所があるの」
「行きたい場所? どこだ?」
向かい側の座席に座るディードへ再び顔を向けたフラウレティアは、何事かとこちらを見つめるディードの瞳を、正面から覗いた。
深い海色の瞳。
その奥には、消すことのできない悲しみが沈む。
彼は、この人間社会に来て、誰よりもフラウレティアに添い、慮ってくれた人間だ。
フラウレティアは、息を吸って一息に言った。
「旧領主館へ行かせて下さい」