暑中の涼風
振り返ったイルマニ王女の表情を見て、フラウレティアは失敗に気付いた。
昨夜は、互いにお忍びでの行動であったはずで、しかもフラウレティアは、アッシュと共に隠匿の魔法を使っていたのだ。
イルマニはおそらく、フラウレティアが昨夜出会った人物だとは、気付いていないはずなのだ。
……多分。
「貴女、やっぱり昨日の……」
イルマニの言葉で、フラウレティアの予想は外れていることが分かった。
なぜだか分からないが、正体はバレている!
思わずフラウレティアは目線を泳がせて、何と言い訳しようかと言葉を探す。
「ボート? イルマニ、それは何の話だ」
フラウレティアが口を開く前に、今まで少し間を空けて立っていたウルヤナ王子が怪訝そうな顔を向けた。
言い淀むイルマニに、ウルヤナが詰め寄るように近付く。
イルマニは、痺れを切らした令息令嬢達がこちらを見ていることに気付いた。
緑翠の瞳を細めてニコリと笑み、ササッとフラウレティアの後ろへ回る。
「私、少し彼等とお話をしてきますわ」
「イルマニ!」
「兄上様はフラウレティアをお願いね。フラウレティア、あのことは内緒よ」
最後の一言をフラウレティアに向かって投げ、イルマニはウルヤナの視線から逃げるようにして、待ち構えていた令息令嬢の輪の中へ入って行った。
イルマニが去るとすぐ、ウルヤナがフラウレティアに向き直る。
「先程のボートとは、何の話だ? 知っているのなら言え」
「あ、えっと、……言えません」
フラウレティアが上目に言うと、頬をピクリとさせてから、ウルヤナが作りものの笑みを浮かべた。
「……そうだな。王女が内緒だと言ったのだから、私の命令より、そちらに従わねばなるまい」
どこか投げやりに吐かれた言葉と、どうせ自分は、というような皮肉気な雰囲気に、フラウレティアはなぜか苛立った。
思わず反射的に口を開く。
「どうしてそんな捻くれた物言いをなさるんですか!?」
「……“捻くれた”だと?」
向けられたことのない言葉に驚き、ウルヤナの笑みが消える。
「そうです! 王女様がどうとか、関係ありません。誰だって秘密にして欲しいことくらいありますよね? それを勝手に喋るべきではないと思っただけです。それなのに、『私の命令より』だなんて!」
次々にフラウレティアの口から発せられる言葉に、ウルヤナは二の句が継げない。
フラウレティアは一歩近付いた。
「まるであなたは、自分からわざと王女様より下にいようとされているみたい……っ!」
フラウレティアの口が、後ろから大きな手で覆われた。
見兼ねたギルティンが咄嗟に口を塞いだのだ。
「おい、相手は王子様だぞ」
素早く小声で言われて、ハッとする。
フラウレティアはギルティンの手の下で、急いで口を閉じた。
あまりのことに、ウルヤナは呆然としていた
王子に初めて向けられた暴言とも思える言葉に、側にいた侍従でさえも同様だった。
しかし、一拍置いて、我に返った侍従の一人が「不敬だぞ」と口にした途端、ウルヤナが声を張った。
「やめろ!」
彼はフラウレティアの顔を見て、一度深く溜め息をついた。
「この者は間違ったことは言っておらぬ……」
貴族の令息令嬢達に囲まれて談笑しながら、イルマニはチラとフラウレティアと兄を見た。
二人は微妙に距離を空けているが、何やら話している。
楽しそう、というわけではないが、自然な表情で言葉を交わしているのが分かって、イルマニは密かに驚いて息を呑んだ。
フラウレティアを置いていっても、兄はいつも通り素知らぬ顔で、周囲に壁を作っているのではないかと思っていたのに……。
ウルヤナは常にイルマニを立て、出来る限り穏やかに後ろに控える。
喜怒哀楽を殆ど表に出さず、作りものの乾いた笑顔を貼り付けて、存在するだけ。
―――以前はそうではなかった。
王族にたった二人残された次代。
例え王になるのが女子と決められていても、妹王女を支える力になる為に、ウルヤナは様々な努力を惜しまない人だった。
しかし、いつからか、そういう努力は見られなくなった。
おそらくそれは、母である女王が、彼をないもののように扱うからだ。
反対に、イルマニのことは、まるで壊れ物のように扱う。
殊更に、過保護に。
それは愛情からというよりも、唯一人の後継を失くすわけにはいかないという、歪んだ執着のように思えるのだが、その執着の欠片さえ向けられないウルヤナにとっては、羨むべきものだったろうか。
イルマニは、兄のその乾いた笑みが悲しくて堪らない。
イルマニは改めて、ウルヤナに真っ直ぐな視線を向けるフラウレティアを見つめた。
昨夜ボート乗り場で助けてくれた二人組の内、側に来た一人は少女だった。
侍女と女護衛騎士は、二人のことを男女であったとしか覚えていなかったが、イルマニは少女の力強い銅色の瞳と、まるで覚えたてのような型通りの女性の立礼をはっきりと覚えていた。
イルマニには、対峙した者の端的な特徴を即座に覚える特技がある。
それは帝王学の一環で身に付いたものだ。
それによって印象付けられた少女の特徴は、今日出会ったフラウレティアのそれと合致した。
間違いなく、昨夜の少女はフラウレティアだ。
「王女殿下、久しぶりの園遊会は楽しめていらっしゃいますか?」
側にいた令嬢に声を掛けられ、イルマニは視線をこちらに戻した。
「ええ、とても」
微笑んで頷く。
今の状況をどう変えれば良いのか、そもそも変えることは出来るのか。
漠然とした想いを抱えたまま過ごしてきた。
今でも分からない。
それでも、兄に貼り付けられた乾いた笑顔を、既に何度も取り去っているフラウレティアに、僅かな可能性を感じる。
それはまるで、暑中の空気を散らす涼やかな風のように、イルマニの胸の奥に沈んでいた小さな希望を浮かび上がらせたのだった。