老薬師
部屋は、入って左の壁一面が棚になっていて、多くの瓶や箱が整然と並んでいる。
一番奥に、棚に背を向けて一人の老人が丸椅子に座っていた。
老人は額から頭頂部分までつるんと禿げ上がり、まばらに残った、薄っすらと茶色の混じった白髪を後ろに束ねている。
痩けた頬や顎にも同じ色のまばらな髭が垂れていて、大声を出すと、口と一緒にモサモサと動いた。
エイムと同じ長衣を着ていることから、おそらくこの老人がグレーン薬師なのだろう。
「患者が若い女子だからとのんびりしおって! 仕事が山積みじゃぞ。さっさと奥へ行け!」
グレーンは、髭を揺らしながら大声でそう言って、エイムに棚の奥、続き間への扉を示した。
「遅くなってすみません! でも、のんびりしていた訳ではないんですよ!」
エイムも負けじと言って、机の上にある紙束を取って奥に向かう。
扉から出ていく前に、フラウレティアに向き直る。
「あの方が医務室責任者のグレーン薬師です。きりがついたら診てもらいましょう。それまでその辺のイスに座っていて下さい」
そう言って部屋を出ていった。
「いたたた! じいさん! もっとそっとしてくれ!」
グレーン薬師が座った丸椅子の前には、診療に使う寝台があって、治療中の兵士が寝ていた。
さっきディードがつけていた胸当てと、同じような革鎧をつけている。
訓練中に怪我をしたようで、右足の膝上から腿にかけて大きな裂傷があった。
グレーンは、兵士の裂傷周りのズボンの布を、ハサミで裂いている。
「バカモノ! このくらいでガタガタ言うでない! じっとせねば足も切るぞ」
フラウレティアは、少し近づいて首を伸ばして覗く。
すると、兵士がこちらに気付いて顔色を変えた。
「ひっ! 魔獣……」
アッシュを見て固まる。
「ほっ! こりゃ良いわ。嬢ちゃん、暫くそこで睨みを効かせておってくれんか」
ジタバタしていた患者が大人しくなったので、グレーンは手早くハサミを動かし始めた。
「ソレが噂の魔獣かの」
グレーンは手は止めずにチラリとアッシュを見た。
「立派な翼竜だのう。まさかこの歳になって、間近に竜を拝めるとは」
モサモサと髭を揺らしてグレーンは笑う。
フラウレティアは目を見張った。
ここにもアッシュを怖がらない人がいる。
やはり、全ての人間が魔獣を恐れるわけではないのだ。
グレーンの左側には、沢山の引き出しが付いた机があり、その上には大小様々な大きさの薬瓶が置かれてある。
傷の具合を見て、手際よく処置していたグレーンが、その中から一つの薬瓶を手に取った。
「すまんが嬢ちゃん、その後ろにこれと同じ瓶があるから、取ってくれんかの」
フラウレティアが後ろの薬棚を振り返る。
ちょうど彼女の目線の高さに、同じ瓶が沢山並んでいた。
濃い緑色のペースト状の薬が、瓶の縁まできっちり詰められてある。
白いラベルには、[メニラ軟膏]と書かれてある。
傷薬として一般的に処方される薬品の名だ。
「どうぞ」
一瓶手に取りグレーンに手渡した。
グレーンはフラウレティアに礼を言うと、瓶を受け取り、医療用の布に塗り付けていく。
「アーブの葉もいるな。棚の上にあるので、その踏み台に登ってもらえるかの」
アーブの葉は大きな単葉で、乾燥させてもしなやかで破れにくく、傷口を薬で覆った上から被せる。
その上から包帯を巻けば、薬が滲み出すことがない。
フラウレティアは棚を見上げた。
きちんとサイズを揃えられた小さな木箱が、端から端まで並んでいる。
全ての箱の正面には、瓶と同じ白いラベルが貼られていて、几帳面な字で薬剤の名前などが書かれてあった。
その中から[アーブの葉]と書かれてある箱を探し、アッシュに指差した。
「アッシュ、あの箱をお願い」
アッシュはバサリと翼を広げて浮き上がると、フラウレティアが示した箱をそっと咥えて引き出す。
フラウレティアは箱を受け取ると、グレーンを振り返った。
グレーンは、老年特有の白目の濁った瞳をしっかり開き、興味深そうにフラウレティアを見つめていた。
「嬢ちゃん、その文字が読めるのかの?」
「はい。……あの、これじゃなかったですか?」
フラウレティアは、棚の上の木箱をもう一度見上げた。
他にアーブの葉と書かれている箱はない。
グレーンは暫くフラウレティアとアッシュを見つめていたが、薄茶の瞳を細めて笑うと、箱を受け取った。
髭をモサモサと揺らして嬉しそうに言う。
「これであっておるよ。そうか、読めるか。こりゃ良いわ。人手不足での、暫く手伝っておくれ」
その後は、休む間もなく何人かの患者の手当てを手伝わされ、気付くと午後の一の鐘が鳴ってから随分経っていた。