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遺産相続人 〜猫たちの時間7〜  作者: segakiyui
3.事件
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2

「おい!」

 後を追おうとして蹴り飛ばしたらしい下駄に気づいた。追うのを諦め、下駄を突っかけて座り込んだ子どもに近寄る。

「大丈夫か?」

 子どもは膝を抱えて丸くなったまま、顔を俯せてうんともすんとも応じない。少しすると弱々しくしゃくりあげ始めた。

「えーと…亘君、か?」

 ひ、と声を止めて子どもが俺を見上げた。

 ヤマ勘が当たったらしい。

 亘は怯えた顔で俺を見ている。両頬が既に腫れ上がり赤くなりつつあった。唇の端に血が滲んでいる。口の中を切ったのかもしれない。

「あ、と、ちょっと待て、えーと……あ」

 ハンカチを出そうとしてジーパンのポケットに入れたままだったのを思い出す。今頃は……やめよう。亡霊に火葬場じゃ、もろに怪奇映画だ。

「ひええっ!」

 体を竦めた途端、視界の端から白いものが突き出されて飛び退いた。

「どうしたんですか?」

 周一郎がきょとんとした顔で、差し出したハンカチと俺を見比べている。

「いつ降りてきた!」

「今です」

「おっ、音ぐらいさせろよな! ほんっとに心臓に悪いぞ! もし今止まったままだったらどうするん…」

 くすくすと小さな笑い声が聞こえて口を噤んだ。視線を降ろした先、亘が涙に濡れた頬に笑みを浮かべている。どうやら俺の『台詞』が受けたらしい。

 とにかく泣き止んでくれてほっとした。周一郎のハンカチを受け取って亘に渡してやる。

 おずおずと手を伸ばした亘はハンカチを掴むのかと思いきや、俺の手に掴まってのろのろと立ち上がった。と同時に、無言で自分を見つめている周一郎にぎくりと体を強張らせ、不安げな顔になって俺と周一郎を見比べる。

 亘の視線を感じ取ったのだろう、周一郎はどこか寂しそうな笑みを一瞬滲ませ、すぐに向きを変えた。

「では、おやすみなさい、滝さん」

「あ、ああ」

 後ろ姿が気になって見送っていると、くいくいと袖を引っ張られ振り返る。

「うん? 何だ?」

「あの…あの、ね」

 話すと痛そうに顔をしかめるあたり、やっぱり口の中を切っているのだろう。

「かあさまが」

「かあさま?」

 鈴音が?

「…来て下さいって」

「は?」

 亘のことばがよくわからないまま、瞬きする。

「こんや、二の門の外にいます、って。11時にって」

 とぎれとぎれに確かめるように亘は伝える。真剣な目の色で俺を見上げ、

「おじちゃん…約束…」

「え、あ…その…」

 返事に困った。

 今夜11時、二の門の外? まるでアイビキみたいじゃないか。いや、これはまさにアイビキだろう。豚と牛が適度に混じった方が牛だけより美味しいとも言うよな、実際……いや、違う、違うぞ、うん、うろたえるな俺。

「おじちゃん」

 ちょっと別世界へ逃避しかけた思考を亘が引き戻す。

「ああ、うん…まあ、その、はい、行きます」

「うん、あのね」

 どんな用かわからないが、一所懸命に伝えて答えをもらおうとする亘に、冗談じゃねえ、何言ってんだ、不倫かそれは、などとは応えられない。それに、そういうことではなくて、家族の耳のないところで、何か頼み事があるのかもしれない。

 亘はにっこりと世にも嬉しそうに微笑んだ。真っ赤な頬が痛々しくて、必死に笑った顔がいじらしくて、続いて何かを言おうとした亘を覗き込む。

「うん、それで?」

 次の瞬間、

「亘っ!」

 もう一つ、甲高い声が響いた。全身を跳ねさせて亘が振り返る先に、いつの間にか皖が立っている。同じ顔なのに、これほど違うものになるのかと思うほど、きつくて険しい表情で、大股に亘に近づくとぐいと俺の側から引っぱり寄せた。

「皖ちゃん、だって」

「違う。おじちゃん」

 訝しそうに反論しようとした亘を皖は一言で押さえつけた。俺に向き直り、ぎらぎら輝く熱に浮かされたような目で睨みつける。

「母さまは来ないでくれって言ったんだ」

「へ?」

「皖ちゃん!」

「黙ってろ亘!」

 鋭く大人びた声音で、振り向きもせずに皖は亘を制した。俺を見つめたまま、もう一度、一言一言区切るように繰り返す。

「おじちゃん。母さまは、来ないでくれって、言ったんだ」

「皖…」

 呼ばれたのを無視して、弱々しく首を振る亘の手首を掴む。

「行こう、亘!」

 そのまま引きずるように皖は亘を連れ去っていく。

「え?」

 来てくれ。

「え?」

 来ないでくれ。

「え、え、え?」

 どっちが正しいんだ? それともどっちも違うのか?

 置き去られて立ち竦んだまま、俺は途方に暮れた。


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