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「おい!」
後を追おうとして蹴り飛ばしたらしい下駄に気づいた。追うのを諦め、下駄を突っかけて座り込んだ子どもに近寄る。
「大丈夫か?」
子どもは膝を抱えて丸くなったまま、顔を俯せてうんともすんとも応じない。少しすると弱々しくしゃくりあげ始めた。
「えーと…亘君、か?」
ひ、と声を止めて子どもが俺を見上げた。
ヤマ勘が当たったらしい。
亘は怯えた顔で俺を見ている。両頬が既に腫れ上がり赤くなりつつあった。唇の端に血が滲んでいる。口の中を切ったのかもしれない。
「あ、と、ちょっと待て、えーと……あ」
ハンカチを出そうとしてジーパンのポケットに入れたままだったのを思い出す。今頃は……やめよう。亡霊に火葬場じゃ、もろに怪奇映画だ。
「ひええっ!」
体を竦めた途端、視界の端から白いものが突き出されて飛び退いた。
「どうしたんですか?」
周一郎がきょとんとした顔で、差し出したハンカチと俺を見比べている。
「いつ降りてきた!」
「今です」
「おっ、音ぐらいさせろよな! ほんっとに心臓に悪いぞ! もし今止まったままだったらどうするん…」
くすくすと小さな笑い声が聞こえて口を噤んだ。視線を降ろした先、亘が涙に濡れた頬に笑みを浮かべている。どうやら俺の『台詞』が受けたらしい。
とにかく泣き止んでくれてほっとした。周一郎のハンカチを受け取って亘に渡してやる。
おずおずと手を伸ばした亘はハンカチを掴むのかと思いきや、俺の手に掴まってのろのろと立ち上がった。と同時に、無言で自分を見つめている周一郎にぎくりと体を強張らせ、不安げな顔になって俺と周一郎を見比べる。
亘の視線を感じ取ったのだろう、周一郎はどこか寂しそうな笑みを一瞬滲ませ、すぐに向きを変えた。
「では、おやすみなさい、滝さん」
「あ、ああ」
後ろ姿が気になって見送っていると、くいくいと袖を引っ張られ振り返る。
「うん? 何だ?」
「あの…あの、ね」
話すと痛そうに顔をしかめるあたり、やっぱり口の中を切っているのだろう。
「かあさまが」
「かあさま?」
鈴音が?
「…来て下さいって」
「は?」
亘のことばがよくわからないまま、瞬きする。
「こんや、二の門の外にいます、って。11時にって」
とぎれとぎれに確かめるように亘は伝える。真剣な目の色で俺を見上げ、
「おじちゃん…約束…」
「え、あ…その…」
返事に困った。
今夜11時、二の門の外? まるでアイビキみたいじゃないか。いや、これはまさにアイビキだろう。豚と牛が適度に混じった方が牛だけより美味しいとも言うよな、実際……いや、違う、違うぞ、うん、うろたえるな俺。
「おじちゃん」
ちょっと別世界へ逃避しかけた思考を亘が引き戻す。
「ああ、うん…まあ、その、はい、行きます」
「うん、あのね」
どんな用かわからないが、一所懸命に伝えて答えをもらおうとする亘に、冗談じゃねえ、何言ってんだ、不倫かそれは、などとは応えられない。それに、そういうことではなくて、家族の耳のないところで、何か頼み事があるのかもしれない。
亘はにっこりと世にも嬉しそうに微笑んだ。真っ赤な頬が痛々しくて、必死に笑った顔がいじらしくて、続いて何かを言おうとした亘を覗き込む。
「うん、それで?」
次の瞬間、
「亘っ!」
もう一つ、甲高い声が響いた。全身を跳ねさせて亘が振り返る先に、いつの間にか皖が立っている。同じ顔なのに、これほど違うものになるのかと思うほど、きつくて険しい表情で、大股に亘に近づくとぐいと俺の側から引っぱり寄せた。
「皖ちゃん、だって」
「違う。おじちゃん」
訝しそうに反論しようとした亘を皖は一言で押さえつけた。俺に向き直り、ぎらぎら輝く熱に浮かされたような目で睨みつける。
「母さまは来ないでくれって言ったんだ」
「へ?」
「皖ちゃん!」
「黙ってろ亘!」
鋭く大人びた声音で、振り向きもせずに皖は亘を制した。俺を見つめたまま、もう一度、一言一言区切るように繰り返す。
「おじちゃん。母さまは、来ないでくれって、言ったんだ」
「皖…」
呼ばれたのを無視して、弱々しく首を振る亘の手首を掴む。
「行こう、亘!」
そのまま引きずるように皖は亘を連れ去っていく。
「え?」
来てくれ。
「え?」
来ないでくれ。
「え、え、え?」
どっちが正しいんだ? それともどっちも違うのか?
置き去られて立ち竦んだまま、俺は途方に暮れた。