1
「そうかー、お前さんも一緒に来たのかー」
畳の上に爪を立てることもなく、ちょこんと前足を揃えて座っていたルトを脇を支えて抱き上げる。場所が場所だけに猫を家に上げるなんてと眉を潜められるかと思ったが、朝倉家の威信はこんな場所でも健在で、誰も何も文句を言わない。珍しく大人しくだらあんと下半身をぶらつかせて、ルトはにゃあん、と鳴いた。金色の目を細め、細い線となった瞳孔が俺を見つめる。
「こんなとこ来てもいいことないぞー」
池に落とされたり転がされたり突き飛ばされたりなあ、とぼやいてみせるが、再びにゃあん、とお行儀良く、普通の猫のように鳴いてみせるだけだ。
えい、この猫かぶり……って、猫の場合も猫かぶりでいいのか?
「けどなあ」
ルトとのにらめっこを止めて、もう一匹、じゃない、もう1人の猫かぶりの方を見やる。開け放った障子の向こう、縁側で甘い薄闇に暮れた景色を背景に、白い着物姿で立っている相手を振り向く。
「ここの仕事だなんて、一言も言わなかっただろーが?」
縁側は延々と続く窓ガラスで外界と隔てられていた。部屋の中の灯に、曇り一つなく磨き上げられたガラスに映った顔が、一瞬世にも照れくさそうな困った顔に引き攣り、それをまじまじと確認する前にくるりと周一郎は振り返った。
「たまたま予定が早まったんです」
そっけなく突き放した言い方、見下ろす視線も冷ややかだ。
ああほんと、こいつに似合わないものってないんだな。
ふいに、いささかいじけながら感嘆した。
一緒に池に引っ張り込んじまったおかげで、上から下までぐっしょり濡れた周一郎は、うろたえ慌てる久から丁重に対応され、風呂を仕立てられスーツをクリーニングに出され、今は謹んで提供された白い着物を来ている。年齢から言えば、やや細身で小柄な体が和装で一層引き締まり、一分の隙なく整った出で立ちは屋敷の気配にすっかり溶け込んでいた。昔で言うなら、大名とかでかい屋敷の勉学好きな跡取り息子、という感じだ。
「…どうせこっちはその日暮らしの平民だよ、悪かったな」
「何をぶつぶつ言ってるんですか?」
不審そうに首を傾げながら、周一郎は裾さばきも鮮やかに部屋に戻ってくる。足音一つたてないままで、少し離れたところに何の不自由もなく正座した。
「………とことん人のコンプレックスを刺激する奴だよな」
「?」
「こっちの話。けど、どうしてルトまで連れて来た? 商談だけだろ?」
しかもルト以外の付き添いなしなんて、周一郎の外出にしては珍し過ぎる。
「それは…」
普通に話し出した周一郎は突然口を噤んだ。
「ん?」
「…その、別に、意味はありません。明日にでも帰るつもりですし……」
何を憶い出したのかむっつりした顔でことばを続け、妙な間を置いて周一郎は顔を上げた。
「滝さんは」
「うん?」
サングラスをかけていない目で真正面から見つめてくる。これも本当に珍しい。相変わらず人の目を釘付けにする黒い瞳、一切の感情が読み取れない。
「滝さんはどうするんですか」
「何を」
「ここを継ぐ、かどうかです」
「ああ…そうか…そうだっけな」
溜め息をついてルトを降ろした。毛並みが乱れたんだぞ、と言いたげに毛繕いを始める相手を見て、もう一度溜め息をつき、ごろりとひっくり返って手足を伸ばす。
「滝さん?」
乗り出すような周一郎の顔を見づらくなって、天井を睨みつけた。
さくや鈴音、それに久、双子の子ども。
楽しい家族かと言われればかなり厳しいが、何だろう、泥沼のようなものに足を吸い込まれていくようで、どんどん身動き取れなくなってくる気がする。
朝倉家に俺が何が何でも必要かと言われれば、そういうことではないだろう。生活を放り捨ててまでやりたい勉強があるわけでもない。二度とここから出られないわけでもないだろうし、身内一人もいないんだから、確かに安定して住める場所が有る方がいいに違いない。
冷静に考えれば、この話を蹴る理由がない。
「周一郎」
「はい」
ことんとした、硬い声が応じた。
「俺、帰れないかもしれない」
びくりと周一郎が震えた気がして、振り向いた。だが周一郎はさっきと同じように端然と座っているだけ、俺をじっと見ていた瞳を緩やかに伏せて、
「そうですか」
静かに続けた。
「滝さんがそうすると言うのなら、僕にどうこう言う権利はないし…」
またまた、本当に珍しく、周一郎がためらった口調を途中で消した。
「周一郎? お前…」
どうした?
けれど、その問いは、響き渡った物音に口の中で消えた。
がっしゃんっっ!!
「、ルトっ?」
閃光の素早さでルトが部屋を飛び出していく。俺が跳ね起きると同時に腰を浮かせた周一郎が、音が響いた方向とは別方向に視線を投げた。
視線を追って、庭の一角で縺れ合っている人影を見つける。一つの影は小柄でおそらく子ども、その腕を掴んで引きずり上げているのががっしりした体つきの男。
そこまで見取ったと同時に、子どもが甲高い声で何かを叫び、男がぐっと体を膨らませたかと思うと、いきなり片手を振り上げ振り下ろした。
ぱんっぱんっぱんっぱんっ!
「ちょっ!」
激しい平手打ちの音が響くのに慌てて窓を引き開ける。物音に振り向いた男は久、腕を掴まれているのは双子のどちらかで、ぐったりとした様子でようよう立っている。
「何だよあんた!」
思わず庭に飛び降りた。
「子どもに何してんだ!」
久はぎろりと俺を睨みつけたが、ふん、と鼻を鳴らして手を離し、ぐずぐず座り込む子どもを振り返りもせず母屋の方へ戻っていく。