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「う…ん」
悪夢にうなされている。
通常、これが夢だなんて滅多にわからないものだが、場所が場所だけに絶対有り得ないと断言できるし、それだけに目覚めようと必死なのだが、やっぱり目が覚めない。
「いや……無理……無理だから…ほんと…」
立派な日本間だった。
床の間を背中に正座し、前方右側には鈴音と悪たれ坊主が2人控え、左側には久とさくが控えている。さくが席を外れて座り直し、皺の寄った手で正面の襖をしずしずと開きながら、
「親類縁者一同控えております。石蕗家の時代当主として、御挨拶を」
もう片方の襖も鈴音の手が開かれていくと、その向こうには20畳はある日本間が次々と並んで彼方の消失点に続き、各日本間の両側には何十人何百人という人の列が、これまた彼方の点に消える。さくの声に一斉に振り向いた顔を確認することさえできないで、俺は口を開けたまま、彼方を見つめている…。
「も…無理…」
「…きさま」
「どんだけ広いんだ…ここ…」
「滝様」
「…、うわっ」
ゆさっと揺さぶられて、俺は跳ね起きた。
「…あ…」
枕元で目を丸くして座っている鈴音を見つける。びっくりした顔で俺を見返し、やがてふっと口元に指先を当てて微笑み、尋ねてくる。
「…どうなさいましたの?」
「いや…その……ちょっと……悪い夢を見て…」
もごもご言いながら体を起こした。
陽射しが明るく部屋に差し込んでいる。『ほんの』10畳ぐらいの部屋の中央に敷かれた夏布団の上、腹の減り具合からいくと、時間はもう昼過ぎぐらいか。
「まあ…それで、こんなに汗を…」
甘い匂いとともに伸ばされた指先にどきりとした。無意識に体を引いたせいか、鈴音が我に返ったように手を引っ込める。
「ごめんなさい。はい、お召しかえのものです」
桐の箱に入れて示された中身に引き攣る。昨日着せられていた薄い藍色の着物だ。
「あの、えーと、いや、これも十分いいと思うんですが、『僕』のジーパンとシャツは…」
「あ、の…あれは」
鈴音は困り顔で目を伏せた。恥じらうように頬を染める。
「お義母さまが、石蕗家の当主が着るようなものではないと…」
口ごもった返答に衣服の運命を察した。今頃清掃局にでも送られているのだろう。
「…申し訳ございません」
ひたりと三つ指を突いて畳にひれ伏す鈴音が、肩から流れ落ちた髪の向こうから弁解する。
「お義母さまは格式に厳しい方なので」
「あ、いい、いいです」
不安そうな声に慌てて手を振った。
「俺、着物もそれなりに好きです! えと、ただその、一人じゃ着られなくて」
「お手伝いします」
鈴音は顔を上げた。俯いていたせいか、まだ赤みの残った頬でにっこり笑うのが、幼い少女のようで、日陰に必死に咲く花にも見えて、胸が痛んだ。
いじめちゃいけないよな、この人のせいじゃないんだし。
「じゃ、じゃあ、お願いします」
寝間着も浴衣でぐしゃぐしゃになっていたのを何とか掻き合わせて座り、頭を下げる。はい、と嬉しそうに立ち上がった鈴音に促されて、背中を向けて浴衣を脱ぎ、着物を羽織って整えてもらう。
「はい、こちらに手を」
「お願いします…なんか良い薫り、しますね」
「桐の薫りですね」
香でもたきしめてあるのかとびくびくした俺に、鈴音は笑った。
「家具は全て桐ですから、自然と薫りが移るのですわ」
「はあ、そんなもんですか」
桐の家具なんて天井知らずの値段だと聞いたことがある。第一、今着せてもらっている着物だって、俺には全くわからないが、かなり良いものじゃないんだろうか、肌触りがすべすべしていて気持ちいい。
朝倉家とは違う豪華さだなと溜め息をついていると、
「はい、こちらをお向きになって」
帯一つまともに締められないから、鈴音に全部やってもらって、これじゃああの双子とそう変わらないなとまた溜め息をついた。
もっともあの2人は多少クラッシックな感じはしたが、さすがに洋装(!)だったが。
もし周一郎なら。
脳裏を掠めた顔に苦笑する。
あいつならたぶん、普段着慣れてなくても平然とこんなものでも着こなしてしまうんだろうな。
「…本日、お一方、お客様がいらっしゃいますわ」
「へえ」
「夫の商談相手と聞いております。……滝様は夕刻までごゆっくりなさって下さいませ。ひょっとすると、夕食の時にご紹介するかも知れません、次代当主として」
引き攣った俺に鈴音は笑みを重ねる。
「御挨拶をお願いいたしますね」
「…っごほっっ」
思わず、咽せた。