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柔らかな甘い香りがしている。ピンクの海の中を泳ぐのだから、水着に着替えようと誰かが話している。いや、それよりもピンクの象の方が可愛いよ、ともう1人が答える……。
「…」
視界が唐突に戻ってきた。
甘い匂いはまだ漂っている。香を焚き染めているのだろうか。
匂いに思考を鈍らされ、しばらくぼんやりしてしまっていたようだ。目の前に人間が1人、倒れているのにようやく気づいた。
乱れた白い着物、猿轡を噛まされ、手足を縛られて転がっている。少し影になっているが、見たことのある端正な顔立ちで……TVタレントだっけ……いや……。
「周一郎!」
叫んで動こうとし、前にのめった。こちらもいつの間にか両手両足しっかり縛られている。しかも床より一段高くなった場所に寝かされているようだ。
「くそ…っ、ここは…」
慌てて辺りを見回し、板敷きのこじんまりした部屋だと気づいた。
正面にかなり大きな陽子像、その前に、湯船のようなものが1つと台が2つ置かれている。
右手と左手に引き戸があり、俺の左には訳のわからない木製の受台が置かれ、その上に妙な形の剣が抜き身で載せられていた。
周一郎が転がっているのは斜め右前で、その向こうには古めかしい黒い台の上に何かの経典らしいものが積まれている。部屋の明かりは四隅に掲げられた灯皿に拠っていて、陽子像の影はますます濃く、姿はより禍々しく浮かび上がっていた。
「何だ、この匂いは!」
「阿片…と言えばご存知でしょうか」
声がした方を振り向いて息を呑む。そこには、陽子像そのままの淡く透ける衣1枚で、鈴音が立っていた。事態が事態だと言うのに、本能はどうしたもんだか、顔に血が集まってきて気分が不安定になる。急いで顔を背けながら喚いた。
「こいつに何をした!」
「何も……まだ」
まだ、とぽつりと付け加えた口調に、ぞっとするような凄みがあった。
「何をしようってんだ!」
「お教えしようと思ったのです、あなたがお知りになりたいことを」
「但し」
のっそりと鈴音の後から久が顔を出し、嫌ったらしい笑い方をした。
「その後は、さすがに石蕗家は継げんがな」
「ん…」
周一郎が身動きして目を開け、はっとした。瞬きをし、転がった姿勢のままで静かに辺りを見回した周一郎は、俺の顔を見るとぎくりと体を震わせ、激しい勢いで振り返って久を睨みつけた。乱れた髪の下からの視線は、久をたじろがせるのに十分だったらしく、久は慌て気味に鈴音に命じた。
「起こしてやれ」
「はい」
虚ろな微笑に唇を綻ばせ、鈴音は唯々諾々と久の命令に従った。
起こされた周一郎はなおもじっと久を見つめている。目の色の冷たさには、見慣れているはずの俺でさえぞくりとするものがあったが、その要求に久は応じなかった。
「悪いが猿轡を外すわけにはいかんのだよ。滝君は、鈴音のたっての頼みでな」
周一郎は俺を振り返った。不安そうな心配そうな表情が深い瞳にたたえられている。しがみついてくる皖によく似た、眉をひそめた幼い顔で俺を見つめていたが、再びふいと顔を背けて俯いた。
「滝様…?」
「一体……ここで何をやってるんです」
優しい鈴音の声に、できるだけはっきり厳しく尋ねる。おそらく、皖の知った鈴音と久の秘密というのは、ここで行われていることに関連しているに違いない。
「そう焦らずとも、今、お見せしよう」
喜悦を感じさせる声で久が答え、ぎょっとする。
久はもったいぶりながら右手の戸の向こうに一旦消えると、やがて『何か』をずるずる引きずって戻ってきた。
「っ」
周一郎が体を強張らせる。俺には訳がわからず、久がそれを台の上に引きずり上げるのを眺めるだけだ。
だが、灯に照らされた『何か』を見て総毛立った。両手足を縛られた、どう見ても5、6歳にしかならない少女。眠らされているのかピクリとも動かず、台の上に横たえられたまま、眠り続ける。
鈴音があの奇妙な形の剣を握った。細い腕で持ち上げる。
「っ、よせっ、やめろ…っ!」
どすっ。
呻いた少女の体が跳ね上がった。剣を引き抜く鈴音の体に返り血が飛ぶ。けれども鈴音は驚きもしないし怯みもしない。淡い微笑を浮かべながら震える少女を眺めている。
ぼんやり立つ鈴音の手から、久が剣を奪い取り、喜色満面、少女の体に突き立てる。最初の一撃で絶命したのだろう、ぐたりと向いた少女の動かない瞳に思わず目を閉じると、剣が肉を裂き骨を砕き、幾度か台に当たって滑る音が響いた。胸の悪くなるぼとぼとと言う音と一緒に、雫が台を伝って何処かへ流れ落ちて行く。なおもざくりざくりと剣が動く音がして、流れる音が速度を増した。溜まっていくのだろう、容器の中で飛沫が立てる音が変わっていく。
それが何に使われるのか、考えなくともわかった。
「なんてことするんだ!」
胸がムカつく。吐きたい。けれど、そこまで競り上がってこない。吐くに吐けない気持ち悪さが口と喉に張り付いて苦しい。
「お前ら、おかしいぞ!」
「おかしい……? どうしてだ?」
心底訝しげな久の声が聞こえた。




